災いは忘れてないけどやって来る
「聖!」
 突然、母はやって来る。
「なに?」
「買い物に行くから付き合って!」
 はいはい…言い出したらこちらの都合はお構い無しだ。
「三時過ぎに杉山商店に行かないといけないから、その前に済ませよう?」
「わかってるわよ。…って、聖はなんの仕事をしているの?」
 車の鍵を手にすると、僕は盛大に溜め息を着いた。
「商店街の立て直しをしているんだ。」
「不動産屋さん?」
「建て直しじゃなくて、どうしたら商店街が活性化するかを模索しているんだよ。ま、何れはもっと大きな企業とかにも手を広げられたらと思っているけどね。」
 大きな企業とは裕二さんの会社なんだけど。
 ずっとお世話になってきた商店街をまず立て直して、その後に裕二さんの会社の経営を見直していこうと思っている。
 果たしてACTIVEは生き残れるか…なんてね。
「で、買い物ってどこ行くの?」
「渋谷。駅前の楽器屋さんで涼ちゃんの、」
「あぁ、パパの作ったギターの展示会ね?」
「そう、それを見てから銀座の文房具屋に行きたいの。」
「それはまた、全然方向が違うね。」
 母は頬をぷーっと膨らませながら「でしょ?でも涼ちゃんの展示会が明日までなのよ。だから行っておかないと見逃しちゃうでしょ?」
 父は器用な人で、防音室でギターを弾くだけでなく、一から手作りもしていたらしい。
「ギターね。僕も弾けるって知ってる?」
「知ってる。聖もミュージシャンになるんだと思ってた。裕二さんの跡を継ぐのね?」
「それも、知ってたんだ?」
 僕は、母と母の息子である零くんの間に産まれた本来であれば産まれるはずのない人間だ。
 だから、生まれてきたことに感謝したいと思うようになって、商店街でお手伝いを始めた。
 商店街にも跡継ぎ問題がある。
 そこで積極的にアルバイトを雇うようにしてもらい、その中で経営を任せられるような人物を発掘している。
 それが主婦であっても構わないのだ。
 その人にやる気があって商店街が大好きなら。
 そんなことをやっていたら、裕二さんから声が掛かった。
 「ACTIVEの後継人にならないか」って。
 零くんと陸の行く末を最後まで見届けたいと思った。
「あんまり、お金にはならないけどね。」
 日本と海外の経営姿勢は全く違う。日本人は働きすぎである。
 しかしそれには長年の貧困生活に理由を発する。
 生活を楽にしたいというその願いだけでせっせと働くのだ。
 その背景には愛する家族がある。
 そう、僕は家族が大好き。
 家族のために人生を捧げようと決意した。
 そして、誰にも、隼にも行っていないことがある。
 ―子を成さないこと―
 陸は僕に普通の生活を、家族を作ることを願ってくれた。
 でも、零くんが本心ではそれを望んでいないことは何となく気付いていた。
 それは僕はこの世に存在してはいけないからだ。
 遺伝子は絶たなければならない。
 決してそのために伴侶として隼を選んだのではない。
 僕は隼が必要だと、生涯において隼の存在が大切なのだと気付いたから手を握った。
 不安がないわけではない。
 彼は今、実家から勘当されている。
 ごく普通の家庭なら結婚し子を成し血を受け継いで欲しいと願うだろう。
 それをさせていないのだ。
 もう少しだけ、僕に隼を貸しておいてください、必ず、お返ししますから。
 僕は隼の両親にそう、伝えてある。
 もう少しだけ…タイムリミットは近付いている。
「聖」
 ぼんやりと考え事をしながら駐車場に向かっていると、母が突然Tシャツの裾を握った。
「先に用事を済ませてきなさい。この後は私とデートしよう?」
 は?
 また、この人は突拍子もないことを、言う。

「杉山さんがいい人なのを良いことに言いたい放題なんだから!」
「でもおじさん納得してたじゃない。」
 母はこの街で生まれて育った。
 だから商店街の人とも顔馴染みだ。
「杉山さんの娘さんがママの同級生だったなんて知らなかったよ。可那子ちゃんが帰ってきてくれたら嬉しいなんて、そりゃそうだけど離婚しちゃったらどうすんのさ。」
 すると母はいけしゃあしゃあと「だからよ。かなちゃん、大木君の浮気で落ち込んでたからさ、後方支援。かなちゃんには実家を継ぐという強味があるじゃない。それに思い当たったら大木君も好き勝手出来ないでしょ?」
 杉山さんの娘さん、可那子さんの夫、大木さんは母の高校の先輩で同じ委員会に居たことがあるらしい。
「今の日本人は家に囚われなさすぎ。だから人口が減ってるのよ。私みたいに五人も生んだらノーベル平和賞ものよね。」
 あなたは少し倫理観を養って欲しいけど…本能に素直なんだろうな。
「ママ…誰が一番良かった?」
「…涼ちゃんに、決まってるじゃない。何を言わせるのよ。」
「陸の時は?僕の時は?」
「その話は…」
「なんで、僕を生んだ?」
「だから、」
「零くんとのセックス、気持ち良かった?」
「だからその話は…」
「零くんとセックスして、イッた?」
 僕はハンドルを握っているという状況で母を脅しているのだ。
「ごめん、覚えていないの。私は、涼ちゃんと裕二さんしか、覚えていないの。」
 陸を生んだのは承知の上か。
「僕を今でも構ってくれるのは、罪滅ぼし?」
「違う!それは違うの。私はね、涼ちゃんに愛されていると信じていた。まさか彼が私を忘れるなんて思いも寄らなかった。だから、まさかあの子が、零がなんて、知らなかったのよ。でもね、零は陸の身代わりに…って、それは零しか分からないことよね。夫と息子を間違えるなんて有り得ないものね。」
「ごめんね、ママのことを虐めたらいけないね。忘れて。」
「ううん。でも、聖のことは大好きなのよ?それは分かって?私は聖を涼ちゃんの子だと思っていた。産まれたときのことは覚えているのよ。可愛くてね、ずっと、ずっと抱き締めていた。」
 それだけで、十分だ。
「ありがとう。ママ、」
「ん?」
「僕は生まれてきて良かったと思ってるよ。今まで嫌なことなんてなかった。でもそれは陸が僕に与えてくれたんだ。」
「聖にとっては陸が母親なのね。」
「ううん、陸は陸だ。」
 そう、陸は陸なんだ。
 唯一無二の僕の、陸。
 愛しているとかそんな陳腐な言葉では言い表せない程、好きだ。
 隼の手はいつか放す気でいるのに、陸のことは切り離せない。
 陸のことを考えると、胸が焼け爛れるような痛みを伴う。
 僕は生涯、陸を恋慕い続けるのだろう。