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                                “あなたの人生の転機を教えて下さい”
 夏休み向け、ニュースの特別企画。
 小学生が照り付ける太陽の下、大きなマイク片手に道行く大人達を捉まえては、無造作にそんな質問を投げ掛けている。
 企画はテレビ局が考えたにしても質問のテーマは小学生達独自のもの、だとしたら…。
 なんとも有り難くない題材を思い付いてくれたものだ
 きっと笑顔の仮面のその奥で、過去の古傷がチクリと疼いた奴が何人かは居るはず。
 と、ぼんやりそんな事を思いながらブラウン管を眺めていた俺の背後からいきなり、
 「ちょっとノブ」
 まるで地底から湧き出るような低い声。
 振り返る事なくソファーの肘掛に頬杖を付いたまま短い言葉を返した俺に、
 「あんたねぇ、一日中何もする事が無いのならちょっとは家の事しなさいよ」
 
 ドサッ
 
 言葉を締めくくるがの如くテーブルが荷物を受け止めた音。
 それでも俺の反応がないらしいと察知したのか、
 「何もおさんどんしろって言ってるんじゃないのよ…って、まぁたこんな物で済ませたの?」
 台所に放置されたままのカップ麺の残骸に目が行ったようだ。
 「向こうでどんな生活してるのよ」
 「世間一般、独身男の平均的な生活」
 返した瞬間、火にガソリンをぶちまけてしまった事に気付き、素早く立ち上がると、
 「ちょっと出てくる」
 爆発寸前にどうにかリビングから退散。
 「ノブっ、夕ご飯!」
 「先に食べといてっ」
 玄関から叫んだ言葉は届いたのだろうか
 気にはしながらも追いかけて来ない事を良しとして、重い扉を押し開けた瞬間俺は眉をしかめてしまった。
 夕暮れ近くだと言うのに未だムッとした熱気を帯びたままの外気に、成り行きだが外に飛び出してしまった事をほんの少し後悔。
 だが今更戻る気分にもなれず…。
 俺はひとつ溜め息をついた後、静かに足を踏み出した。
 
 
 
                                
 
 
 
 
 
                                高度成長期掛かり頃、いかにも田畑を切り売りしましたと言わんばかりの入り組んだ町並み。にも拘らず意外と車の往来が多い。
 日が長いせいか、こんな時刻になってもまだまだ人々は活動的だ。
 中途半端な顔見知りに会うのが嫌で人と車を避けながら、しかも出来るだけ日陰に沿って歩いていたせいか、知らず裏路地へと入り込んでいた俺。
 ふう…
 っと右手で傾きかけた日差しを遮りついでに足を止め、そう言えばこんなにゆっくりとした時間を送るのは随分と久し振りだと言う事に気が付いた。
 もしかすると実家にまともに帰って来るのも大学卒業以来になるんだろうか。
 忙しさにかまけて盆も正月もロクに帰ってこなかったからな。
 そんな不肖息子が何の前触れも無くいきなり帰郷したものだから、久々に会う我が子に向かっての母親の第一声が、
 『どうしたの…』
 だったとしても、まぁそれは致し方ない。
 色々と悪い想像を巡らせたであろう母親へ極上の笑顔で、
 『長期休暇が取れたから』
 取り敢えず誤魔化してはみたけれど…。
 そんな理由で満足していたのはほんの2日程。
 いくら休暇中とは言え、そろそろ大台に乗っかろうかと言う男が日がな一日何をするでもなく家でぼんやりしていれば、
 向こうで何かがあった
 って位の推理には直ぐに到達するわけだ。
 こっちが黙っている以上、親の出る幕では無いと思っているのか両親揃って深くは探求して来ないが、だからと言って腫れ物に触ると言う所まで親も過保護にはしてくれず、顔を合わせば文句の1つや2つ…、いや10や20は言いたくなるって事だ。
 実家は確かに心の拠り所ではあるけれど、少年時代そのままのオアシスとは違う。
 なんて事も取り立てて悲しむような年でもないかな…
 …っと、そうそう違うと言えばこの辺りも随分変わってしまった。
 手でかざした程度では遮りきれなくなってきた夕陽から身を隠すよう傍の立木に身体を寄せ、少しだけ俺は視野を広げる。
 向こうに見える大通りは言うまでもなくだが今立っているこんな脇道でさえすっかり舗装されてしまっているじゃないか。
 どうりで夜になっても気温が下がりきらないわけだ。
 等間隔で立っているこの木のある場所だって以前はただの草むらだったのに。
 どこもかしこに昔とは別の意味で人の手が加えられた痕跡が残り過ぎているせいか、走って行く車の音や行き交う人達。まるで今、吹き抜けて行った風までもが他人行儀に思えてきて…。
 …俺、何しに帰って来たんだろう
 なんてセンチになりかけた自分を振り払おうと唯一あの頃と変らない夕日にもう一度目を細めた時だった。
 足元で何かの気配を感じたのは。
 何かがまとわり付く感覚に視線を落とす。と、
 「あれ?」
 甘えた小さな鳴き声で俺の靴にすりついて来るこいつ。
 まさかと思いながらもその場にかがみ込んで嬉しそうに尻尾を振っている黒い物体の顔、と言うより正確には眉間の傷を俺はしっかりと確認。
 「お前、主水之介じゃないか」
 懐かしいなぁ
 って言葉。
 今回の里帰りで初めて口にしたのは犬に向かってだった。
 少しバツの悪さを感じながらも俺が覚えていたことに興奮してかワフワフ言いながら激しくじゃれ付いて来る主水之介を撫ぜながら、
 「わははっ、覚えててくれて俺も嬉しいぞ。っとわは」
 勢い任せに抱き締めた瞬間ほんのりと漂う芳香臭。
 「相変わらず綺麗にしてもらってんだなぁ、今日の天気はまさしくシャンプー日和。ところで御主人様は元気にしてんのか、ん?」
 それは何気に言った言葉だったのだが…
 「お蔭様で」
 ………?
 俺は主水之介を撫でる手をぴたっと止めた。
 しゃがみこんだ体勢で軽く辺りを見回しても人影らしきものはない。
 今のは誰、の声?
 ワフワフ状態継続中の主水之介の顔をじぃ〜っと眺め入ってしまった俺の頭の上から、
 「本当にこいつが喋ってくれるんなら今頃ハーレム作って左団扇で暮らしてるって」
 馬鹿みたいに天を仰いだ俺の視界中央で、よぉと低めの心地よい声で笑顔を浮かべたその男は…。
 何だろう。
 いや、赤の他人と言うわけではないんだが、俺とはどういう関係になるのか考えた事が無かった。
 夕日の赤に負けず劣らずな色合いのTシャツに薄手のサマージャケットを軽くはおり、少し細めのジーンズ姿で悠々と俺の上に聳え立っている男の名は笹倉英雄(ささくらひでお)と言う。
 知り合ったきっかけは主水之介の額の傷、でこの傷が完治するまで一緒に動物病院に通った仲。
 当時野良だった主水之介を引き取ってくれたわけだから主水之介の飼い主であり、その後俺の妹の彼氏になって実家にもちょくちょく出入りしていたまでは係わり合いがあったのだが…。俺は就職で家を出てしまったからその後の付き合いは無い。
 妹とも3ヶ月程で別れてしまったようだ。
 「元気にやってんのか?」
 空き地を囲っている低いブロック塀から身軽に俺の傍に飛び降りると、主水之介の首輪に綱を止めながら俺に涼しい視線を向けた。
 「多分ね、すっかり3人の子持ちだし」
 と返した俺を見る笹倉の目元が険しくなり、
 「お前、結婚したのか?」
 俺は首を振る。
 途端、
 「だぁれの話しをしてるんだ」
 ガバッと首に腕を回されたかと思うと、
 「ノブの事を訊いてるんだよ」
 脳天を拳でグリグリと擦られて、焦ったなんてものじゃない。
 心臓が肋ごと胸を突き破って飛び出るかってくらいバクバクに鳴って、顔どころか絶対に耳まで真っ赤になってる事が分かった俺は極力じゃれ合いの雰囲気を壊さないようにさりげなく、けれど即座に笹倉の腕から逃れて夕陽に向かって立ち上がっていた。
 腕を回された事にも驚いたが、
 “ノブ”
 って呼び名。家族にしか呼ばれた事が無かったものだから、
 「明日も良い天気だ」
 混乱しつつも会話を切ってはいけないと慌ててどうでもいい話題を振ってしまう。
 「また暑くなるな」
 頷いた俺を確認しただろう笹倉。
 「いい加減涼しくなってくれなきゃ、通勤するだけでくたびれるよ」
 「同感」
 「朝から無駄な体力の浪費だ」
 「職場まで結構遠いのか?」
 「いや直ぐ近く、だから可愛い愛車で通勤してる」
 脈拍・心拍・呼吸数揃って正常値に戻りつつある事を感じた俺はようやく笹倉を振り返ってみる。
 いつの間にか笹倉はさっき立っていたブロック塀にゆったりと腰を掛けていて、かなり傾いてしまった夕陽をその端正な横顔に浴びながら主水之介をなでていた。
 主水之介に向けられている静かで深みのある柔らかな眼差し。
 全てを大きく包み込んでくれそうな笹倉のそんな優しい笑顔が好きだった、けれど…。
 心の奥深くへと封印した想いが目覚めないよう、俺は軽く胸に手をあてると笹倉から視線を逸らしてしまう。
 笹倉が選んだのは妹の香奈だったから。
 そんな事は当然じゃないかと割り切る努力はしたけれど、香奈に会うべく頻繁に笹倉が家を訪れるたびに彼が俺のものに成り得ない現実をまざまざと見せつけられているようで、逃げるよう俺は予定より早く家を出たのだ。
 ただの友人知人なんて関係を続けて行くことは俺の笹倉に対する特別な感情には荷が重すぎたから。
 「どした?」
 俺からの返事が無い事を不信に思ったのか、不意に顔を上げそう訊ねた笹倉に俺は曖昧な笑顔を返し、
 「マイカー通勤なんて中々イケてるなぁって」
 すると少し悪戯っぽく口の端を上げた笹倉は、
 「冬は冷房、夏は暖房完備のマイバイセコーだぞ」
 と言う事は…
 「自転車?!」
 さも当たり前かのように笹倉は頷いているが…。
 この笹倉が毎日自転車で通勤している姿を想像して、思わず小さな含み笑いが洩れてしまった。
 「何も笑う事はないだろう」
 不満気な視線。
 「いや、笹倉が汗水流してる姿がなんか意外で」
 悪気は無かったのだが更に機嫌を損ねたのか、ますます笹倉の眉間が寄ってしまった。
 俺は少し唸った後、
 「笹倉って何でも器用にこなすから」
 「一生懸命が似合わない?」
 語尾を取った彼の語調は平静さを保ってる。
 ただ、ジッと見つめる視線が柔らかさを取り戻さない事が気になって、
 「悪い意味じゃないんだ。そう言う素行のスマートな所とか俺、す」
 きだった
 と危うく口が滑りかけ、
 「っごく見習わなきゃって」
 険しい表情の笹倉が今度は訝しげに俺を見つめた。
 「あ゛ー…」
 どうしよう。
 言えば言うほど墓穴が深くなってるような…
 「マジで、うん。ホント」
 困った。
 と、
 「まっ、そう言う事にしといてやるか」
 ようやく笑顔を戻してくれた笹倉。
 「一生懸命を見せたく無いのは事実だしな」
 「そっ、そうなんだ?」
 「熱血体育会系は性に合わない。それよりさ」
 話題が逸れそうな気配にようやくホッとし掛けたのだが、
 「お前、今なにやってんの?」
 途端に消えそうになった笑みを辛うじてキープ。
 一番触れられたくない話題だった。
 「…ずっと一緒」
 「なんかのデザイン関係だっけ?」
 うん、と頷いた俺は、
 「だったら十分中堅…だよな」
 続く笹倉の言葉にもやはり頷くだけで、
 「大変だろう?」
 今度は無言で首を捻る。
 「楽しい?」
 俺が首を傾げた態勢でそのまま動きを止めてしまったから、答えを待つ笹倉と俺の間に訪れたのは沈黙。
 こんなものに長居されては…と俺が口を開こうとしたその時、笹倉が不意に口の端を上げた。
 笹倉が小さく浮かべた笑みの意味が読み取れない俺が結局黙ったまま笹倉の様子をうかがっていると、
 「ごめん」
 いきなりの謝罪。そして、
 「分かりやすいなと思って」
 続いた言葉はやはり意味不明。
 呆けたままの俺の目が口ほどにものを言ったのか、
 「仕事の話しになった途端、ノブの言葉数か激減したから」
 笹倉は俺の疑問に答えてくれる。
 「楽しくないのは仕事じゃなくて…」
 探るように俺を見上げて見せながら、
 「人間関係?」
 
 …大当たり
 
 
 
 
 
 
 
 
                                ***********************************
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                『遠藤さん、12番。社長から内線です』そう言って事務の女の子が俺に電話を繋いでくれたのが先週の金曜日。
 就業時間の5時半を少し回った頃だったか。
 入社して8年目。俺にとっては来るべき時が来た、と言う感じだった。
 何がかと言えば…
 
                                30歳以上の社員は無用
                             
                                俺の会社がこの大原則の下に成り立っていると言えば直ぐに分かるだろう。常に斬新且つ新鮮な風潮を求めようと言うワンマン社長の意向なのだから30歳を過ぎた途端、会社を辞めてくれと言わんばかりの人事異動にあったって誰も文句は言わない。いや、言えない。
 入社当初からそれは何度となく聞かされる話しで、しかも30歳までの給料・休暇等々の待遇は同業者の何処をとっても引けをとらないのだ。
 だから殆どの社員はスキルアップのつもりで入社して20代後半に差し掛かると早々に退社と言う路線を歩む。
 しかしそれなら何故俺が皆に習って同じ道を歩まなかったのか…。
 仕事に遣り甲斐があったから、短命でも社員待遇が良かったから、会社の雰囲気が好きだったから等々、どれももっともらしく聞こえそうだが30歳目前まで居残った最大の理由は、社長が俺に目を掛けてくれていたからだ。
 最初からそうだった。
 仕事面でもそれ以外でも常に俺を社内の誰よりも特別視してくれていたから、俺はそれに何か期待していたのかもしれない。
 だから30歳目前での社長室への呼び出しは俺にとって恐れるに足りない出来事だったのだ。
 首切りの宣告なんてほんの心の片隅にあっただけ。
 俺だけはどうにかなる、って。
 ところがだ。
 『遠藤君、誕生日は確か来月だったかな』
 社長室の黒い革製のソファーに腰を落とすなり本題を切り出した社長。
 俺がハイと頷いた事を確認すると、
 『我が社の規約はもちろん知っていると思うが…』
 言いながらチャラッと鈍く銀色に光る何かが社長の手の中で踊った。
 …鍵、だと言う事は分かるがしかし。
 首を傾げた俺の前に悠然と歩み寄って来た社長は何のためらいも無く俺の手を取り、
 『君専用のマンションの鍵だ』
 掌へ落ちたそれごと俺の手に纏わり付くよう重ねられた社長の両手。
 ただ呆然と見上げた俺に覆いかぶさるよう頬を寄せられたって…
 『大丈夫だ、人払いはしてある』
 硬直してしまった俺の態度を勝手に誤解する社長。
 つまり端からそのつもりだったって事に今頃気が付いて、目の前が真っ暗闇になりはしたものの、割られた膝の奥深くへと躊躇う事無く進入して来る社長の足に驚いて慌てて俺は身を引いた。
 すると、煩わしげに少し身体を離した社長は鋭い視線を向けながら、
 『何の為に良くしてやったと思ってるんだ』
 衝撃的な一言だった。
 『会社に残りたいなら…』
 その後、続けられた社長の言葉は全く憶えていない。
 ひどい頭痛と眩暈によろめきながらもどうにか社長の腕から逃れ、握っていたマンションの鍵を丁重にテーブルの上へと置くと頭を下げ社長室の扉を閉めて…。いやその前に、
 『少し考えさせて下さい』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                ***********************************
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                すっかり日が暮れてしまった路地裏の片隅で、こぢんまりと並んで座る男2人と犬一匹。ただ黙ってジッとしている姿は他人からすればかなり滑稽…と言うより奇妙な光景だろう。
 幸い地元の人間だって殆ど利用しないような寂れた小道だから、不審に思うような人間も通らないのだが…。
 「有り難う」
 長い長い沈黙の後、膝を抱えたままポツンと呟いた俺の言葉に笹倉の視線を感じた。
 「こっちに帰って来てからの何日か、ずっと頭の中で考えてたけど埒が明かなくて…。だけど今やっと何か糸口が見えて来た気がする」
 俺が話しをしている間、笹倉は怒るでも笑うでも同情するようなそぶりもなく、ただ時々相槌を打ったり簡単な質問を投げかけてくれたり。
 思えば俺の頭の中の整理が付くように上手く話しの流れを誘導してくれていたのだ。
 「4,5年前なら絶対にぶん殴る…ってまでは行かなくても直ぐに社長、突き飛ばして啖呵切って社長室飛び出してたって思うけど、そんな事出来なかったなぁ」
 ひとつ大きく深呼吸。
 嫌だとも、止めろとも、そんな言葉すら出なかった。
 俺は一体…
 「…何にしがみ付こうとしてんだろう」
 カシャンっと後ろの金網に身体を預けて濃紺の天を仰いだ。
 きっとこの疑問を見出せなくて、この数日悶々と悩み続けていたんだ。
 俺の才能を買ってくれていると信じていたから、社長の期待に応えるべく仕事一筋で必死に突っ走って、走って走って走って…。
 辿り着いた先には、何も無かった。
 なんて現実を認めたくなくて、
 「今の生活が守れるなら愛情なんて無くても社長の要求、呑んでもいいかもって心の隅っこで考えてんだぜ。馬鹿だよなぁ」
 情けなさすぎて涙も出てきやしない。
 まるで宇宙の果てでも見極めるようキッと夜空を睨み付けたその時だった。
 「帰って来いよ」
 静かにそんな言葉が耳に響いたのは。
 ゆっくりと笹倉を振り返ると彼は穏やかな視線を置いたまま、
 「逃げ出したって構わないさ」
 それが余りにも意外な言葉で、
 「ノブはよく頑張った」
 不意打ちだった、から…。
 「…そ」
 んな風に言われたら。
 そんな優しい笑顔を向けられたら…。
 口を開いた途端、子供みたいに涙が溢れて出て、漏れそうになる声を抑えようと口を手で覆う直前だった。
 笹倉の腕の中に抱き込まれたのは。
 けれどその行為に動揺もせず当たり前のように俺は身を任せてしまった。
 だってよく頑張ったって褒めてくれたのは笹倉だから。
 頑張った俺にささやかなご褒美があったっていいじゃないか。
 …今だけは、って。
 今だけ、だけど笹倉は…
 俺のもの
 
 
   
 
                                
 
 カシャーン、カシャーン、カシャーン…
 
 周期的な金属音の軋みが近づきつつある事に2人同時に気が付いて、慌てて突き放すよう身体を離した俺達。
 何か見られたんじゃなかろうかと息を詰め座ったままの俺が、それでも気になって様子を伺っていると自転車に乗った青年は素知らぬ顔で通り過ぎて行ってしまった。
 ホッと胸をなで下ろしながらも気持ちはまださっきの余韻を引き摺ったままだ。
 いつまでも未練がましい…と、俺は想いを断ち切るかの如く勢いよく立ち上がって見せ、
 「そろそろ帰るよ」
 パンパンとズボンの埃を払いながら笑顔で振り返る。
 まださっきの場所にそのまま腰を落ち着けて、まるで今、目が覚めたかのように呆然と俺を見上げる笹倉の方が遥かにさっきの余韻に浸り切っていた風情。
 ただの欲目だと分かっていても俺にとってはそれがほんの少し救いになった。
 見つめる視線の焦点が合ってから僅かばかり間を置いて、
 「そうだな」
 と呟いた後、笹倉が立ち上がった途端、スックと立ち上がった主水之介。
 すっかり板に付いた主従関係に感心してしまう。
 そう言う意味では俺の社長に対する忠誠心なんて主水之介の足元にも及ばない、って事を社長自身がどこかで感じ取っていたのかもしれない。
 つまり、成るべくしてして為った結果って事。
 なんてすんなり気持ちの切り替えが出来るのは、思いきり泣いたせいだろうか。
 妙にすっきりした気分でフェンスに括りつけた縄を解く笹倉の後姿をボンヤリ眺めていた俺だったのだが…。
 「さっきの事、本気で考えてもらえないか?」
 背中を向けたままで表情の見えない笹倉の言葉。
 はて、何の事だっただろう?
 会話をリピートさせながら首を捻ってしまった俺と、難無く解いた綱を片手に振り返った笹倉とが、
 「あのさ」
 「あのな」
 言葉のブッキングに見詰め合ってしまった。
 何やら気まずさを感じた俺が勢いよく何でも無いとゼスチャーで主張すると、笹倉が小さく笑いながら2回頷き、ほんの一呼吸置いて、
 「一緒に、暮らさないか?」
 ザザっ
 と吹き抜けて行く風に危うく連れて行かれそうになった理性を俺は必死で引き止めた。
 その言葉はあまりにも魅惑的だけど…
 「日本語の表現が正しくない」
 事情があって庭付き一戸建ての家でひとり暮らしをしてるらしいと聞いたのは、まだ笹倉が香奈と付き合っていた頃の話し。
 「それだとまるで同棲の誘いだ」
 もっとも変な期待に胸を膨らませる男は俺くらいなのかもしれないが…、
 「何も今更俺なんかと同居しなくたって好きな娘でも誘ってみろよ。そう言うのが不自然な年でもないし」
 わははと笑って終わる話しだと思っていた。のに、
 「だからノブを誘ったんだ」
 答えに俺は目を見張る。
 「…何を冗談」
 「本気で言ってる」
 瞬きすら忘れたままの俺は数秒後、
 「わっ、はっははは」
 かなり無理のある空笑い。
 すると表情を固めた笹倉が、
 「笑い話しをしてるつもりは無い」
 低い声だが口調は穏やかだ。が、そんな風に真っ直ぐ見つめられたって、真面目に受け取るわけにはいかない。
 何故なら、
 「笑い話しで誤魔化すつもりも無い」
 俺は想いを振り切るように頭を振り、
 「香奈を選んだじゃないか」
 あの時、確かに笹倉は。
 だから俺は忘れるべく家を出たんだ。
 それなのに今頃になってそんな事を言われたって…
 「間違いだったんだよ」
 俺は再度、笹倉を凝視。
 今のはどの言葉に対する返答なんだ?
 すると首を捻りながら唸ったのは俺ではなく笹倉の方で、
 「少しニュアンスが違うな。間違いだったじゃなくて間違えたんだ」
 …つまり?
 「ノブと香奈ちゃんを間違えた、が正解なんだ。分かるか?」
 全然
 首を大きく横に振った俺へと当然だと言わんばかりに頷いた笹倉が、
 「ちゃんと説明させて欲しい。あの日の事を…」
 手綱を僅かに手繰り寄せ、軽く指で座れと主水之介に合図。
 俺はちょこんと腰を落とした主水之介を眺めながら、
 「…誕生日」
 小さく呟いた。
 話しの内容は皆目検討がつかないにしろ、仮に心当たりがあるとすればこの日しか思い付かないから。
 主水之介の傷もほぼ完治し笹倉と会う理由作りもそろそろネタが尽き掛けていた頃、偶然だが打って付けのタイミングで笹倉の誕生日を知ったのだ。
 『奢るから、その日。空けといて』
 誘ったのは俺だった。
 就職で家を出る事も決まっていた俺が、チャンスはこの日キリだと気合を入れ過ぎたのが禍したのかもしれない。
 待ちに待った誕生日の当日、俺は数年振りに高熱でダウン。
 けれどその日、笹倉にどうしても連絡が取れなくて、待ち合わせ場所に香奈を行かせたんだ。
 結局この事が俺と香奈との明暗を分ける形になった訳だが…。
 すると俺の呟きを肯定も否定もしないまま、
 「あの日」
 と、もう一度繰り返した笹倉。
 「…約束していた待ち合わせ場所に着いた時、壁に凭れて立っている後姿に違和感を感じたんだ。今より早い時刻だったが街頭が少ない場所だったのか天気が悪かったのか闇夜だったのか…、とにかく辺りが暗かった。大学を出る間際、ゼミの教授に掴って約束の時間に随分遅れていた事が気に掛かっていたから、ノブがそこに居てくれた事だけで安心してしまったんだ」
 笹倉が囚われている懐古の念のその時代へと俺も追い付こうとするべく記憶がずっと溯り、
 チャラッ
 と小さな鎖の音をたて伏せた主水之介だけを俺はただボンヤリと見つめていた。
 「まったく、自分の誕生日だと言うのにトラブルの多い一日で、また何か変な事が起こる前に…と思うなら正面きって言えば良かった。大切な告白は本人の目を見て言うモノだ、ってあの時本当に骨身に沁みて感じたよ。まさかノブ以外の誰かがそこに居るなんて夢にも思って無かったから」
 だから俺と香奈とを間違えた?
 なんて不自然過ぎる…といつもの俺なら一笑に伏してしまうだろう。
 しかし笹倉の話しがいかにも尤もらしく聞こえてしまうのは、さっき思いがけなく笹倉の優しさに触れてしまったせいだろうか?
 都合良く解釈し過ぎる自分の邪な想いから逃れようと目を細めたその時だった、
 『お兄ちゃん、これ貸してよね』
 唐突に思い出した言葉でハッと笹倉を見上げた俺。
 …そうだ
 「俺の服を…」
 重く頷いた笹倉。
 あの日香奈は俺のダウンコートを着て出たんだ。
 暗がりに後ろ向きで、しかも俺の服を着て立っていた香奈。
 それはまるで間違えろと言わんばかりの演出で、
 「“遠藤”が好きだと御丁寧に苗字まで付けてハッキリ告白してしまったから、満面の笑顔で振り返った相手が人違いだと分かった所でどうにもならなかった。あの状態でどう言い訳したって」
 俺はゆっくりと首を振る。
 それ以上はもう…
 誤解を解くには香奈に真実を告げる他、方法が無かっただろう。
 だがあの時点でそれをするには余りにもリスクが大き過ぎる。
 香奈が疑問視しなかったのは…、そう。きっとそれ以前から香奈も笹倉が好きで、少々の話しの食い違いは無視したんだ。紛れも無く香奈だって遠藤なんだから。
 俺は大きなため息をつくと目を閉じた。
 香奈の想いに気がつかずメッセンジャーに彼女を選んだ俺が悪かったのか、ちゃんと相手を確認せずに告白した笹倉が悪かったのか、いきなり背後から告白して来た笹倉に何の疑問も抱かなかった香奈が悪いのか…。
 …いいや。
 誰も悪く無い。
 ただほんの少し歯車がずれただけの事。
 人生には良くある事だ。
 きっと多分もう全ての事が時効なんだろう。香奈だって結婚して子供生んで幸せに暮らしてる。
 俺はパチっと目を開くと改めて笹倉に視線を移した。
 そろそろ俺だって幸せになっても良い頃なんじゃないだろうかって、そう思ったりしたから
 「笹倉」
 呼び掛けると静かに首を傾げて見せた笹倉に、
 「さっきの話しなんだけど」
 そこまで言ったところで既に零れんばかりの笑顔を向けられてしまい、
 「ふつつか者ですが…」
 言い終わる間も無く心地の良い腕の中に引き寄せられた。
 僅かな腕の隙間から主水之介が尻尾を振って嬉しそうに俺達を見上げている姿が目に入る。
 この結末を1番心待ちにしていたのは彼だったのかもしれないと、そんな事を考えているうちに、
 
                                アイシテル
                             
                                って耳元に落ちてくる甘い囁きにもうそんな事どうでも良くなってしまった。
 
 
 
 
 
 
 
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                                「随分と早いお帰りです事」門をくぐるや否や庭の手入れをしていた母親の言葉に俺は気まずく苦笑い。
 『直ぐに帰る』
 と言ったきりの朝帰りだ。
 「ごめん、ちょっと」
 俺はそこで少し考えた後、
 「笹倉と偶然会って、話し込んでしまって…」
 名前を聞いた途端どんな顔をするかと思ったが意外にも、
 「あら、懐かしいわね」
 …って、なんとも普通のリアクションじゃないか。
 まだ9時だと言うのに汗だくで立ち上がった母親は、
 「彼、元気にしてるの?」
 首に引っ掛けたタオルで汗をふく。
 すっかりおばさん化してるな、と思いながら頷いた俺へと、
 「香奈が連れて来た男の子の中じゃダントツに良い子だったのよね。別れた時に、わざわざ家にまで謝りに来てくれて」
 思わず目を丸くした。
 そんな事一言も…
 「ちょっと香奈には勿体無い位だったかな」
 俺にも勿体無い位かもしれない。
 ますます惚れ直したりして…。
 「それより朝ご飯、いるんだったら用意するけど」
 いらないと笑顔で首を振り玄関に向かおうとした俺だったのだが、不意に呼び止められ、
 「どうかしたの? 何か歩き方が変なんじゃ…」
 鋭い指摘に心臓が絶対3秒は止まったはず。
 慌てて、
 「さっき転んで、腰打って…。ああ、でも大丈夫。横になれば治るから」
 逃げるよう母親の前から立ち去った。
 極力普通を装ってたんだが、さすがに親は侮れない。
 玄関の扉を閉めた途端、プツンと緊張の糸が切れてしまった俺はヨロヨロと上がり框に手を付いてしまったが、ひとつ息をつくともう少しだけ気力を振り絞り、ようよう2階にある自分のベッドへと転がりこんだ。
 そして怒涛のように押し寄せる疲労と睡魔に逆らう事無く瞼を閉じ、久々に良い夢を見られるだろう予感に思わず顔が緩んだ。
 きっと夢の中でも逢えるはずだから
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――翌週明け
 意気揚々と会社に向かう俺の鞄の中に収められた一通の白い封筒。
 上書きは…書くまでもないだろう。
 『来月早々帰るから』
 伝えた相手の声のトーンが1オクターブ上がったのは言うまでも無いが…、どうやらまた母親の驚く顔が見られそうだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 おしまい
 
 
 
                                アニヴァーサリーやメモリアル。事有るごとにお祝いを…と言いつつ、その度に踏み倒しておりましたが、
 今回ようやくひとつ作品が出来上がりました。
 他の誰とは言はず、聖さまに気に入っていただければ幸いです。
 これからも益々のご活躍、心よりお祈り申し上げます。
 
                                2002.9月 杜水月
 
 
                                Wall Papar 
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