近くて遠くて
「先輩には、付き合っている人がいるんですか?」
 高校三年の時、部活の後輩に聞かれた。
「いるよ。」
 大抵の娘は、とても吃驚する。
「そうですか…ずっと、好きでした。」
「あ…ありがとう。ごめんね。」
 オレは、女性に対してはいつも、不誠実である。
 付き合っている人なんて、いない。
 告白もしていない。
 出来るわけがない。
 だって、その人は同じマンションに住んでいた、オレの高校の、世界史の先生で、新婚だった。
 何もしないうちに、玉砕してしまった。
 その後、先生は引っ越していき、その後に同じ高校の教師で、音楽の先生がやって来た。
 オレは、音楽を専攻していなかったので、その教師とは接点が無いまま、高校を卒業し、ただのご近所さんになってしまった。
 ただ、先生の方はオレを高校で見かけたことがあるらしい、ある日ゴミ捨て場で偶々会ったときに「このマンション、高校から近いから通学に便利だね。」と、話しかけられた。
「はい、それで進学を決めましたから。」
「へー、凄いね。近いから進学できるなんて。」
 確かにオレの通っていた高校は偏差値が高かった。
 お陰で、東京の大学にも進学できた。
「所で、キミの彼女は、誰なのかな?」
「はい?」
 思わず声がひっくり返ってしまった。
「いや、妹がキミに振られたとガッカリしていたから。」
「何時の話でしょうか?一杯ありすぎてどの娘か判らないです。」
「そうか、モテるのか。」
 そう言って、先生は笑った。

 大学に進学して一年後、久し振りに実家へ帰省したとき、またしてもゴミ捨て場で先生に会った。
「あ、お帰り、くまモン!」
 え?知ってたの?
 オレたちが高校時代、ゆるキャラが流行っていて、オレは苗字が熊本だからくまモンと呼ばれていた。
「って、驚いてる。」
 先生はニコニコと笑っていた。
「前に話したよなぁ、確か。キミに告白した妹。あれに聞いた。」
 あー、そういうことね。
「先生のことはふなちゃんって呼んでました。」
「舟橋だから、ふなっしー?」
「はい。」
「他には?」
現代文の先生は苗字が深沢でふっかちゃん、数学の先生は志木市出身だったからカパル、古典の先生は苗字が成田でうなりくん、化学の先生は苗字が国分でにしこくん、体育の先生は身体が大きいからバリィさん…そんな感じ。
「じゃあさ、校長先生は?教頭先生は?」
「あ、そう言えばなかったかも。」
 いくら考えても思い浮かばない。多分校長先生も教頭先生も、接点が余りなかったのだろう。
「敢えてつけるなら、ひこにゃんとすがもんかな?」
 校長先生は猫好きで、教頭先生は目が細いから。
「うん、そんな感じ」
 舟橋先生は楽しそうに笑った。
「そのあだ名、キミがつけていたの?男の子でゆるキャラが好きって珍しいね。」
「そうですか?ゆるキャラも好きだし、アイドルも好きです。」
「あ、アイドルね。確かに。」
 一年振りの再会は、終始ゴミ捨て場だった。

 それから三ヶ月後の夏休み、今年は地元でバイトをしようと思い、実家に戻った。
 理由はただ一つ、舟橋先生に会えるかと思ったからだ。
 しかし、今回はゴミ捨て場でも会えず、偶然エントランスで会うようなこともなかった。
 もうすぐ8月も終わろうと言うとき、駐輪場で先生に会った。
「あ、帰ってたんだ。こっちも実家に帰ってた。」
 先生は、いつでも微笑んでいる。
「そろそろ高校は始業式ですね。」
「うん。くまモンはまだこっちにいる?っていうか、二十歳になったんだっけ?」
「はい、この間のゴールデンウィークは、誕生日で戻ってました。」
「ゴールデンウィークが誕生日?いつ?」
「5月4日です。」
「よし、なら飲みに行こう!」
 え?
「同級生も呼んで、行かない?そうだ、さのまるも呼ぼう。」
 さのまる?
「佐野先生。」
「そんなあだ名、つけてません。」
言いながら笑ってしまった。
「いいでしょ?さのまる。」
「そうですね、うん、いい。」
 オレの、好きだった人、だ。
「都合の良い日、教えて。」
 先生はそう言ってスマホを取り出した。
「あ、そう言えば番号も何にも知らないか。交換する?」
「はい、よろしくお願いします。」
 その時、自覚した。
「舟橋仁って言うんですか?先生のフルネーム。」
「そう。くまモンは熊本大海…ひろみ?」
「ええ、ひろうみとよく間違われるんですけど、ひろみです。」
 オレ、この人のこと、好きだ。

「くまモーン、大丈夫?」
「大丈夫でーす。」
 同級生を三人ほど誘い、舟橋先生と佐野先生と六人で飲みに行った。
 そんなに飲んでないけど、先生が好きだと自覚した途端、甘えたくなった。
 同じマンションに帰るのだから、最後まで付き添ってくれるはずだ。
 案の定、先生はずっと肩を貸してくれた。
「大海くんは、いつ帰るの?」
 くまモンから名前になったな。
「9月半ば。仁くん、今度は二人で行きませんか?」
「ふなっしーからジンくんになった。…いいよ。」
 オレは、この時進路を変更した。

 正月が、やってきた。
 今回は事前に先生と連絡をしていたので、すんなりと会えた。
「お帰り。」
「ただいま…です。」
 両手をぐっと握りしめ、抱きつきたいのをぐっと我慢した。
「メールで言ってた進路相談だけど、生憎自分は専門職だから生徒指導を受け持たないんだ。なので、他の先生に聞いてみた。」
「すみません、ご迷惑お掛けしました。」
「迷惑なんかじゃないよ。」
 やっぱり先生は笑っている。きっとオレはこの笑顔にやられたんだな。
 そう言えば佐野先生も笑顔が絶えない人だった。先日の飲み会では奥さんが妊娠したと言っていたけど、全然ショックじゃなかったのが逆に切ない。
「結論から言うと、地元より東京の方が就職し易いけど、無いことはない。」
 無いことはない…知ってるよ、そんなこと。でも調べてくれたんだ。
 なんか嬉しい。
「先生は音大出ですか?」
「うん、芸大」
 げ?
「なんで芸大で先生?しかもこんな田舎…」
「楽器は得意だけど、専門でそれを続ける気になれなくて、地元に戻って先生してるんだ。」
 先生が紡ぐ音はどんな音だろう。
「楽器はなんですか?」
「ピアノ。」
 なんか、意外だった。舟橋先生が…仁が、ピアノを弾いている姿を見たい。東京に戻る前に、見ておきたい。
「1月7日が始業式だから、来る?学校。他の先生にも会えるよ?」
「いいんですか?部外者なのに。」
「いいよ、申請出しておく。卒業生訪問って。」
「何に対しての訪問ですか?」
「教育実習?」
 二人して笑った。
「残念だな、教職課程、取っておけば良かった。」
「三年から受けられるでしょ?変更すれば。学校によるのかな?」
 オレは真剣に調べようと真面目に思った。

 東京に戻る前日、母校の始業式へ行った。
 仁のピアノを弾く姿は、背筋をピンと伸ばし、肘から先を動かして綺麗なフォームで紡がれていた。
 ピアノの音は、力強く、他を近寄せない孤独的な音だった。これがピアノを弾くことを専門にしなかった理由だろう。
「気付いたんだ。」
 案の定、仁がそう言った。
「ソリスト向きですね。」
「無難な答えをありがとう。」
 仁は、笑った。
 仁が、笑う度に、胸がツンと痛くなる。

 大学三年になった。
 ウチの大学は三年から教職課程が受けられた。教育実習は秋。
 夏にも秋にも、仁に逢える。
 早速LINEで連絡すると、書類は送っても良いけど、夏休みに挨拶に行くよう勧められた。
 そこで気付く。
 仁の卒業した高校は何処なのだろう?
 去年の夏休み、実家に戻っていたと言った。
 二ヶ月も休みはないのに、実家に戻れる距離。
 今までなら気にも留めなかったことを、色々知りたくなる…でも、なんであの時、佐野先生を飲み会に呼んだのだろう?
 マンションの後に入るほど、仲が良い?
 第一あのマンションはどういう事情で先生が続けて入居したんだ?
 気になりすぎて何も手に着かない。
 っていうか、帰りたい。

 取るものも取り敢えず、実家に戻った。
「今年は何処でバイト?」
 先生は楽しそうに質問する。
 連絡先を交換してからは、エントランスで会うことが多い。
「ここ、暑いよね。ウチ来る?」
 先生の家に入れるの?
「いいんですか?」
「どうぞ」
 ニッコリ、笑った。
 オートロックを解除してエレベーターホールへ連れ立って歩く。
 エレベーターに乗り込むと3階のボタンを押した。
「大海くんちは何階?」
「ウチは7階です。」
 ウチのマンションは10階建て。
 小規模マンションだ。
「ここね、元々僕が持ってる物件なんだ。佐野先生には貸してた。」
 そう言うと、仁が振り返った。
「大海くんは佐野先生が好きだったんだよね?」
 …え?
「佐野先生が言ってたよ、テスト期間以外毎日のように職員室に質問に来ていたって。勉強も好きなんだろうけど、佐野先生の人柄に惹かれているんだろうなって、思ったんだ。僕もそんな教師になれたらいいなと思うけど、音楽は受験に関係ないからね。」
 佐野先生の人柄…ね。
「先生だって魅力的です、オレにとっては。」
 ん?なんか、告白みたいになっていないか?
「ありがとう。常々思っているんだけど、大海くんは優しいよね。高校時代モテていた理由がわかったよ。女の子は勘違いする生き物だから、その優しさをはき違えるんだろうな。」
 仁?なに、なんでこの期に及んで女の子の話?
「どうぞ」
「…お邪魔します…」
 そうだよ、忘れていたよ。
 佐野先生はごく普通に結婚したんだよ、女性と。
 オレはさ、いつも想いを寄せるばかりで、実ったことがない。
 それは、性癖が違うからだ。
 女の子に対しては拒絶できるけど、男性に対しては、何もしていないんだ。
 それは、拒絶されたくないから、何もしていないんだ。
 女の子以下だ。
 でも、仁と、繋がっていたい。
 もう少しこの甘い気持ちと心地よさと、ほんの少しの期待を抱き続けたい。
「これさ、水出しなんだ。」
 仁が冷蔵庫から取り出した冷水ポットには、アイスコーヒーが入っている。
「あ、それ、オレもやってます、東京で。」
「僕も東京で覚えた。はい。」
「ありがとうございます。」
 初めて口にする、仁の入れてくれたアイスコーヒー。
 砂糖もガムシロも入っていない、ブラックだった。
「先生はブラック派なんですね。」
「あ、ごめん、ガムシロ持ってくる。」
 オレは慌てて仁の手首を握った。
「違うんです、オレと同じと言いたかったんです。」
「大海くん、」
 仁は、じっとオレの目を見る。
「仁でいいから。」
 ゴクリと、唾を飲み下す音がしてしまった。
 だが、オレはまだ、想いを遂げたことがないのと、少しの疑心暗鬼が動きをセーブさせた。
「僕も大海って、呼ぼうかな。」
「いいですよ、仁くん。」
「あー、やっぱりジンギスカンのジンくん風に呼ばれてる気がするなぁ。」
「わかりました?」
 この先、どうしたらこの想いは告げることが出来るのか、叶えることが出来るのか、オレには皆目見当がつかない。
 玉砕したくない気持ちが勝って、仁の方が大人なんだからと、他力本願になってしまった。
 もしも、仁がオレに好意を抱いてくれているのなら、いつか、オレに告げてくれるだろうと、待ちの姿勢を保つことに、この時決めてしまった。

 夏休み中は、実家近くのコンビニでバイトをして過ごした。
 秋になり、東京へ戻っても、頭の中では実家に戻ってどうやって仁の近くに居られるかを考えあぐねた。
 結局、教師の道を選ぶのが一番の得策だが、フラれたときにどう対処したら良いのかに迷う。
 両親は、相続する物もないから東京で就職しても良いと言った。
 なんの障害もないのに。

 LINEで教育実習には行かないと伝えた。
 オレは教師には向かないから。

 最終的に、オレは東京の企業で内定を貰い、地元の地方公務員試験を受けた。
 物の見事に、公務員試験は落ちた。
 東京で就職が確定した。

ー就職おめでとうー
 仁からのLINE。
ーありがとうございますー

 大学四年。
 卒業論文とバイトに明け暮れて、実家に戻ったのは正月休みだった。

「とうとう東京の人になっちゃったんだね。」
 仁の部屋に招かれた。
 仁は普通に、今までと同じトーンでそう言った。
「はい」
 オレはそれが精一杯の返事。これ以上言葉を発したら、余計なことを言ってしまう。
 いや、言ってしまおうか。
「じ…」
「大海。」
 名を呼びかけたところ、逆に名を呼ばれた。
「約四年、君の私生活を覗かせて貰ったけど、付き合っている女性は、いないよね?なんで?」
 なんで…って。
「妹に言った付き合っている人って誰?」
「それは、あの時は女の子と付き合う気が無かったので嘘を言ってました。」
 仁の表情は変わらない。
「告白してくる子みんなに?」
「はい。」
 だって、オレには好きな人がいたから。
「男女交際に興味が無かった?」
「はい。」
「でも、好きな人はいた。」
「…はい。」
 なんでそんなに突っ込んでくるんだろう?
「仁先生、何が言いたいのか、わかりません。」
「わからないなら、いい。でも僕たちの道は分かれてしまった。もう、こんな風に会うことは叶わなくなる。」
 心臓が、バクバク鳴っている。
「いや、です。仁、オレは、貴方に会いたい。」
「ならどうして?どうして教員試験を受けなかった?」
「それは…って言うか、はっきり言ってください。オレに何を求めているんですか?」
 生まれて初めて、好意を抱いた人にフラれる、そう覚悟を決めた。
「ごめん、大海は何も悪くない。悪いのは意気地の無い僕だ。」
 仁は項垂れて口を閉じてしまった。
 少し待ってみた。
 じっと、瞳を見詰めて待ち続ける。
「きっと、そうなんだろう、そう思っていたけれど、確信が欲しかったんだ。本当は妹なんていないよ、あれは学校で見たんだ。」
 この人はなにを言っているんだろう?オレの頭の中はグルグルと色んなことを考えている。
「僕は、自分と同じマイノリティを持つ人を探していた。」
「それは、性的嗜好ってことですか?」
「そういうこと…僕は男性に愛されることを好むんだ。」
 愛されると、受け身で言ったのは身体的なことだろう。
「オレはわかりません。」
 仁の望む答を、オレは避ける。ここまで言ったのだから仁から言って欲しかった。
「なんで、東京で就職した?」
「そこに戻るんですね。言ったじゃないですか、オレに教師は向かないと。まさか公務員試験に受からないとは思わなかったけど、ここから通えない場所じゃ無いんです、就職先。」
「え?」
「オレは、先生に好かれたいと思っていたから、何とか近くに居られる方法を考えて、考えた結果です。先生は何か考えてくれましたか?何か行動してくれましたか?オレのために。」
 言い終わるや否や、仁はオレを抱きしめた。
「キミを放したくない。離れたくない…好きだ。」
「はい、」
 オレは仁の背に腕を回した。
「愛しています。」


「いつも、大海が女の子に告白される場面に遭遇するんだよ、何故か。」
 その日、一緒に晩飯を食べようとなって、台所で並んだ。
 仁は器用に包丁を使う。
 オレは鍋の中身をかき回す。
 まるで今までもそうしていたかのように。
「でもいつも答えは同じ。この子のハートを射止めた子ってどんな子なんだと気になりだした。気になるってことは、そういうことなんだよ。」
「どういう?」
「大海、意地悪だな。」
「真面目にわからないです、何ですか?」
「好意を持ってるってこと!」
「だから?」
「好き」
「え?そんなに前から?」
「うん。でも接点が無くて声を掛けられなかった。まさか同じマンションだなんて、神様に礼を言ったよ。」
 可愛いな。
「あまりにも嬉しくて、直ぐに声掛けた。」
「知らなかったんですね、オレのウチ。」
「うん、知らなかった。」
「オレは声掛けられて気になりました。だから、声掛けてくれなかったら就職先も違っていました。」
「勇気を出して良かった。」
「はい。」
 しかし。
 両親も暮らすこのマンションで、一緒に暮らすのは抵抗がある。
「暫くは今のアパートから通います。」
「待って、待って待って!まだ就職まで時間がある、互いに通える距離でベストな住まいを探そう?」
 仁は、すでに一緒に暮らす気満々だ。
「だって毎日会いたい。初めて想いが通じた相手だから、毎日会いたい。」
 初めて?
「仁、」
「…なんだよ…」
「大好き」
「うん…あ!」
「どうしました?」
「大海の好きな人って…誰だったの?」
「秘密です。」
 知らない方が、いいこともある。
「意地悪だな。じゃあ、好きなアイドルは?」
「ジャニーズ」
「あ…なんか敗北感。」
 やっぱり、仁は可愛い。