=ジューンブライド=
 私が最後の恋をした相手は生意気な奴だった。

 春、新入社員として配属されてきたのはこの春、大学を卒業したばかりの初々しさが…かけらもな
いすれた青年。
「岡部主任、今日の予定ですが山辺利商事の坂室部長とアポイントが取れています。」
 見た目のいい加減さを直せばまともになるだろうと私がシニア担当を買って出た。しかし…中もいい
加減だった。
「何時に約束だ?」
「11時です。あと20分です」
「あ?」
 15分かかるところを20分前に告げる奴だった。
 それでも半年もしたらまともになってきた。やっと人並みと言うところだろうか。
 ある日、他の新人やシニア担当がみんなで集まり慰安会のような形で居酒屋に繰り出した。
 そんなに飲んだ記憶は無いのだが気づいたらそいつと二人きりで日本酒の飲み比べになっていた。
「主任、もう止めた方がいいです、俺に勝てるわけないんですから」
 そうだ、いつも酒の席では自分が先につぶれてしまう。
「でもどうして俺のシニアは主任なんですか?大抵もっとキャリアの浅い人ですよね」
 私は絶対に酔っていたのだ…その時のことを鮮明に覚えているという謎以外は。
「そんなん、決まってるだろ…」
 あまりにもおまえが頼りないからだ…そう続けたつもりだった。
「あの…もしかして俺…誘われているんでしょうか?」
 は?
「どっちにしても一人で帰すわけにはいかないですね」
 私は軽々と背中に乗せられ、そのまま不覚にも眠ってしまったのだった。


「主任、こっちが手、そうそう。でここに足を入れて…」
 すっかり眠っていた私を必死で着替えさせようと、世話女房の様に甲斐甲斐しく動くお前の身体を、
どうしてだろう?抱き締めていた。
「ごめんなさい、俺、好きな奴がいるんです」
 私の腕の中で小さく応えた。
「だからご期待には添えることは出来ません。」
 言葉を探したが見つけることが出来ずにただひたすら頭を左右に揺らすのが精一杯だった。
 そう、私はお前に…横山由弘という男にに恋をしていた。それもかなり重傷だ。自分でも気づかぬう
ちに惹かれていたのだ。
「好きな…だけなのか?」
 頭で考える前に口に出ている言葉。
「はい、告白もしていません…出来ないです。」
 心臓が高鳴る、耳鳴りのようにドクドクと耳の奥で鳴り響く。
 酒臭い息を吐きながら、私は唇を合わせた。徐々に深く、ついには押し倒さんばかりの勢いで横山
の唇を貪った。
 それでもお前の指はピクリとも動かなかった。

 押し倒してそのまま…不覚にも再び眠ってしまった。
 翌朝、私は横山の腕の中で目覚めた。それが全然不快ではなかった。
 横山にあんなにこだわっていたのは好意があったからなんだ、だから自ら進んでシニア担当になっ
たり、あれこれと世話を焼いてしまったんだ。そう考えれば辻褄が合う。
 あとは簡単だ、口説けばいい。
 しかし…。自分の家に帰っても寂しくて胸が潰れそうになる。気づくと横山の家の前にいた。
 なにをするでもない、ただ一緒に夕食をとり、一緒に眠るだけ。あの日、唇を重ねただけ、それ以降
は指一本触れたことも触れられたこともなかった。
「岡部さん、いっその事、越してきたらどうです?」
 一ヶ月ほどしただろうか?横山はテレビを見ながらそう言った。
「2人で生活すれば無駄が少ないですからね。」
 ―なぁ、横山。お前は私の邪な感情を知っていてそういうのか?―
 私は答えなかった、答えられなかった。
 なぜならば、私にはその時、上司の娘と婚約寸前までいっていたからだ。

 結婚して出世をとるか、叶わぬ恋のひと時の夢をとるか…。
 この時の私は絶対にどうかしていたんだと思う。
「今のままがいい…」
 どうしてこんな答えを出したのだろう。
 案の定、夜も休日も家に居ない私を彼女は怪しんだ。ついには仕事帰りの私を待ち伏せしてまで
会いたがった。
「すまない、今はどうしても私のやりたいようにさせて欲しい…今だけ…」
そういうと彼女に背を向けた。
「パパが、何時結婚するのかって毎日のように催促するの。ねぇ、何時って言ったらいいの?それとも
もう駄目なの?」
 私は振り返れなかった。どうしてこんなに優柔不断なのだろう。
「必ず迎えに行くから…少しだけ待っていて。」
 この瞬間、私の恋には期限がついてしまったのだ。
 いずれ、彼女を迎えに行かなくてはならなくなってしまった。
「今夜の高人、何かいつもと違うな」
 やっと名前を呼んでくれるようになったのに、やっと私のことを見てくれるようになったのに、手放さな
ければいけなくなってしまった恋・・・。
「嫌だ…嫌なんだ…」
 胸にすがって泣いて困らせる。
「由弘、好きなんだ…」
「うん」
 なんで、こんなに近くに居るのに手に入らないんだ・・・、どうして私のものにはならないんだ…。



「わざと二人で来たのか?」
 横山は私の前では見せたこともない最上の笑顔で武をエスコートしている。武はそんな横山を照れ
くさそうに、でも眩しげに見つめる。
 五年前、私はあんな表情をしていたのだろうか?
「ご結婚、おめでとうございます。」
 武がやけに鋭い視線を私に向ける。
「聞いたのか?」
「はい」
「そうか」
 武には何でも話しているんだ。胸がチクリと痛んだ。
「横山も、好きだったと思います。」
「何を?」
「最後の恋人を」
 最後の恋人?私は君の恋人だったのだろうか?
 私に新たな疑問を残し、二人は自分達の指定された席へ向かっていた。
 何故私はこんなところで客に愛想を振りまいているのだろう?
―由弘、私は―
 いけない、お前はもう絶対に私の方は振り向かないと言ったではないか。
「大丈夫?具合悪いの?」
 彼女はよく出来た女だ、私には勿体ない。
 しかし、本当のことを知って冷静でいられるのだろうか?
「私、左にいた男の子、嫌いよ」

 唐突に、表情一つ変えず正面を見据えたまま彼女は言った。
 今、横山とは会話らしい会話はしなかったはずだ、なのに。
「知ってるよ、全部。だからこんなに時間が掛かったんじゃない。」
 何…を?
「大丈夫、パパは知らないから。」
 本当に全て知っているのか?だったらこんな馬鹿らしいこと、今すぐ止めて…。
「高人さんは私と結婚しないと不幸せになるんだから。」
 やけに断定口調で言い切る。
「そのうちわかるよ。」
 …かなり、怖いかもしれない。
 しかし、彼女は私が言った「必ず迎えに…」を本当に信じて待っていた。私が横山の所に足しげく
通い続けた半年間、黙って待っていた。


 その日はやってきた。
 朝、取締役に呼び出され内示があったのだ。
「大阪営業部 推進課の課長として赴任して欲しい。」
 それには『彼女と結婚して』という暗黙の条件があったのだ。
「あの…単身でもいいのでしょうか?」
「まぁ、構わないがね。」
 ―牧原部長が泣くぞ―と、取締役の瞳が言っていた。
 会議室を出てからはただずっと頭の中がガンガン鳴っていた。
 結論を出すときが来たのだ…
 内示後、一週間で辞令が下りる。更に一週間で赴任先に異動しなければならない。
 私に残された時間はごく僅かだ。
 その晩、私は横山の部屋を訪れ、異動の話をした。
「大阪?栄転?…何かなぁ…」
 何か言いかけていた唇を強引に塞いだ。息を継ぐ間に
「今夜だけ、私の好きにしていいか?」
と、唇に囁いて再び塞ぐ。
 背中に回された腕が、強く抱きしめ返してきた。それをOKだと勝手に解釈して、キスをしたまま、
かなり無理な体勢で着衣を剥がした。
 横山が一糸纏わぬ姿をこの目に焼き付けたかった。そして互いの肌を合わせて眠れば、それで
良かった。これ以上の無理を強いることは私には不可能だった。
「…高人…良いよ。俺大丈夫だから。」
 良い?大丈夫?何のことだ?
 真面目に私が戸惑っていると横山の身体は私から離れ、下半身に顔をうずめたのだ。
「ちょっ、待て。駄目だ…そんな…」
 横山にそんなことされたら、直ぐに…思っている間に達してしまった。
「高人早すぎだってば。これじゃ入んない…ってまだ元気だね。」
 言うが早いか、横山の身体がふわりと浮いて、私の身体を跨いだ。両手で尻を掴むと私の先端を
当てがった。
「ちょっと、キツイ…かも。」
 体重を掛けない様にゆっくりと進める。横山の顔が大きく歪む。
「無理、するな。」
 私自身は、ここで止められるととっても辛いが、横山の辛さを思ったらたいしたことではない。
「俺には…これしか出来ない…から…ん…」
 全てが横山の中に収まってしまった。
「痛いだろう?」
 私は腰を引いた。すると
「んふっ」
と、甘い声が零れた。
「ごめん…俺はこういうこと、初めてじゃないから。」
 初めてじゃない、ということは私以外の男が、この身体をこんな風に貫いたのか?
「動いて、いいよ。高人が気持ちよくなるように動いていいよ。」
 頬が薔薇色に上気していて色っぽかった。本当にこの男はどうしてこんなに私の心を惹きつける
のだろう。
 私が突き上げるたびに肩も、胸も、腹もピンク色に染まった。そして私は何もかもが弾け飛んでス
パークしてしまったのだった。


 翌朝、いつもは出勤ギリギリまで寝ているのに珍しく早く起きてきた。
 私は今まで通りに飯を炊いて豆腐と油揚げの味噌汁を作り、沢庵を切ってテーブルに並べた。
「高人、これで、終わりにしよう。」
 やっぱり、そのセリフか。夕べのことがあったから、もしかしたらと淡い期待を抱いていた。
「由弘。」
「ここを出たら高人と俺は最初の通り先輩と後輩…いや、課長になるんだから上司と部下だよ、ね?」
 幼稚園児を諭すような口調で、私の視線に立って言う。
「由弘…」
 わかっている、そんなこと。だけど首に縋って泣いた。もう二度と泣けないくらい、泣いた。
 横山の腕は、二度と私を抱きしめることはなかった。


 これが、私の最後の恋になる。
 今、私の隣で花嫁として微笑んでいる女性は牧原取締役の娘だ。取締役はこの五年の間に異例
の出世を遂げた、出世頭だ。そしてその娘は私のことをずっと待ち続けていた、健気な女だ。
 恋をする前の私は、頭の中に『企業で出世するのが男の存在意義』という信念を掲げていた。しか
しあいつに出会って、同じ時間、同じ空間を共有して少しだけ考えが変った。
 嶺南(れいな)が私を慕ってくれるなら、私は彼女を幸せにしなければいけないと、そう思ったのだ。
そこに『恋』という甘い響きはないけれど、『愛情』という幸せのモトは存在している。
 さっき、武が言った『最後の恋人』…由弘にとってはどうだったか今では分からないけど、私にとっ
ては最初で最後の恋人だった。
「ねぇ高人さん、六月の花嫁は誰よりも幸せになれるんだよ。2人で、幸せになろうね。」
 私は嶺南に微笑で応えた。