= 降着 =
「馬鹿やろ…」
 俺は、意気地なしだ。本人には結局悪態一つつけなかった。
 この後、どうすればいい。わからないんだ。


「今まで通りでお願いします。」
 田中は少し俯いて答えた。
 平気な顔をしていろだと?無理だ、そんなの。


 キスをしただけでこんなに気持ちが揺れた相手が未だかつていただろうか?
 田中に欲情はしない、それは変わらない。しかし心は相当揺れている。
 懐かしい感覚だ。昔、小学生の頃、クラスメートに抱いた感情ににている。初恋と言う名のつく、幼
い恋。
 まさか…。

「多分。」
 電話の相手は同意の言葉を口にした。
「というか、やっと気付いてもらえたかな、って思ったんですけど。」
「横山はわかっていたのか?」
「わかりません、そんなこと。ただ二人を見ていてそう思っただけです。一年半、離れていた間何を思
って何を感じたか、思い出して下さい。」
 離れていた間?
「柴田さんはナカが初めてのジュニアじゃないですよね?」
「いや、初めてで最後だよ。」
「だからかな?」
「横山だって…」
「すみません」
 四位の話には触れて欲しくないのか?
「その話はいまするとややこしくしてしまうので又別の機会にしましょう。」
「そうだな。」
 確かに。俺は田中を恋愛対象にしているんじゃ、ない。
「でも。柴田さんにとっては物心ついてから生まれた弟のような感覚でも、ナカは違いますよ。彼は気
付いていないだけであなたにかなり執着している。結婚したのは、あなたと同じでいたいからです。」
 同じ?
「同じ様に考えて、同じように感じて、同じように生きていく。重なるのではなく、似ているのです。」
 似ている?
「昔、学生時代に憧れの先輩やタレントの真似をしませんでしたか?それと同じです。ナカは柴田さん
に憧れているのと同じなんです、きっと。ナカが柴田さんに何か言ったのかもしれませんが、今まで通
りにしていてやってください。ナカは不器用ですから。」
「なぁ、横山。田中の方が横山より先輩じゃなかったか?」
「はい、一年ほど。」
 横山は面倒見がいいのかな?


「田中」
 朝、まだ営業所内に誰も居ないのを確認して、呼び出した。
「新人を預かることになった。適任者が田中以外居ないんだ。」
 人指し指をこめかみにあて、少し考えていたが諦めたらしい。
「以前から逃げてきたツケですね。分かりました。」
 田中には初めてのジュニアだ。
「俺の真似、するなよ。」
 横山に言われた言葉がよぎり、余計なことを言った。
「分かっています。」
 少し不機嫌に答えた。
「もう、大丈夫です、すみませんでした。自分の中で解決しました。」
「ちょっ…待て…」
 言い掛けてタイムアウト。他の所員が出社してきた。
 自分だけ解決したって、俺はどうなるんだ?
 内心イライラしているところに
「おはようございます。」
早速、新人がやってきた。
 渋々立ち上がり、全員召集する。
「皆に紹介しよう。新人の武士沢幸太郎君だ。」


 今年は人事部の方針で一年掛けて新人教育をする。
 一年。
 長い、と思ってしまった自分に動揺する。
 あいつは正海さんがいて、洋くんがいて…。
 子離れできない父親はこんな思いなのだろうか?
 いつだって俺に意見を求めていた田中が、いつの間にか一人立ちして家庭を持って、先輩として後輩
達を指導していく…。

 なんで、キスされたのか、俺にはやっぱり理解できないままだった。