十五夜

「痛いっ」
 リビングの入り口に置いてあるものに躓いた。
「痛いなぁ、誰だよこんなところに…」
 うわぁ、『源氏物語絵巻』だ、って本物じゃなくて勿論写真集だけど。
「零、どうしたのこれ?」
「うん、もらった。」
「誰に?」
「…あっ…と、出版社の人。」
 なんか、歯切れの悪い返事をされて少しムッとして…でも大人気無いかなって思って写真集のページをめくり始めた。
「光源氏って零みたいだよね。」
 すると後ろから、蹴られた。
「同じ事言うなよな。」
 俯いて顔を赤らめている。
「…マザコン…なんだよ、この人。」
 そうしたら真面目な顔をされて、戸惑ってしまった。
「マザコン…なんかじゃないよ。」
 馬鹿だなぁ、零はママが大好きなんだよ、いつも『あきらちゃんが、あきらちゃんが』って言っているじゃないか。
 『ママ』って呼べないのが何よりも証拠じゃないか。僕は事ある毎にママに嫉妬している。零は『陸の代わりにあきらちゃんを愛した』って言ったけど、僕には逆のような気がしてならないんだ…これも、言えないなぁ。
 僕を蹴った足をそのまま背中に置いたままグリグリって…痛いなぁ…怒るぞって顔をして振りかえったら、
「前言を撤回しろ。」
って、拘るなぁ。
「本当のこと言っただけだから。」
 あっかんべってしたら、
「可愛くないな。」
 えっ…?僕に背を向けて寝室に行っちゃって…ポツンと僕はリビングに取り残されてしまった。
今日の零なんかヘンだよ。

 その理由がわかったのは夜、だった。
「涼ちゃんが、聖を連れて来いって言っているんだ。」
 零は夕食の片づけが終わって、僕は聖を風呂に入れて寝かしつけてリビングに戻ってきた時だった。
「なんで?だってこの間はいいって言ってくれたじゃないか。」
 少し躊躇っていた。でも顔を上げて僕の目をじっと見て、零は言った。
「帰ってから考えたらしい…環境が良くないってさ…それに…母親がいるんだからやっぱり母親のもとで育てた方が良いだろうって。涼ちゃんはいつも側にいてやることが出来るし…」
「僕達がいけないの?側にいてあげられないからだめなの?やっと笑うようになった聖をまた笑えない子に戻すって言うの?いやだよ、聖のいない生活なんて考えられない、僕にとって聖は…零の次に大事な人だから、違うな…零とは違うんだ、大切なんだ、僕の…」
 僕の、なんて言うつもりなんだよ、これは零に言っても分からない…一生。
「僕だって聖は…可愛い。最初は正直言って面倒だって思っていた。望んだわけじゃない、あきらちゃんが勝手に…って思っていて…でも僕の子供なんだ、聖は。だからずっと側に置いて愛してあげたい。…涼ちゃんが心配していることは、別のこともあるんだ…実紅のこと…実紅も夾も陸が兄弟だって知らないって言っただろ…気付いたらしいんだ。」
「だから?」
「…陸…気付いてなかったのか?」
 不思議そうな表情で僕の顔を覗きこんだ。
「実紅は…陸のことが好きなんだよ。だから今までだって何も言わずに手伝ってくれていたんだ。陸に会いたいから、陸と一緒にいられるから…」
「それで喧嘩するんだ、零と実紅ちゃん。ごめん、気付かなかったよ。」
 だって僕には零しか見えないからさ。
「実紅ちゃんはもう来てくれないってことなんだね。あの子、人見知りが激しいから家政婦さんだと嫌がって辞めさせちゃうしなぁ。」
 こんな話を聖に聞かせたくない。聖は繊細だからちょっとのことで傷ついてしまう。
「そんなに急がなくてもいいでしょ、ちゃんと聖の将来も考えて、聖にとって一番良いと思う道を選んであげようよ。」
 そうなんだ、『聖にとって良い道』っていうのは本当ならやっぱり涼さんとママの側で育つことだと思う。それはママがちゃんと病気が治ったら、なんだけど。
 僕が聖を引き取りたいって思ったのは聖が零の子供ってこともあるけど零に自覚を持って欲しかったんだ。自分がしたことは最後まで責任を持って欲しかったんだ。その時の感情だけで行動して後は知らないなんて親になる資格ないじゃないかってちょっと非難めいた感情を持っていたから。
 めったに会いに来ることも無くて、涼さんはママのことで手一杯で、実紅ちゃんも夾ちゃんも年の離れた兄弟のことなんて興味無くて、いつも寂しそうにしていた聖。何度となく僕は自分の家に連れてきて一緒に遊んでいた。それくらいしか僕には出来なかったから。零の分まで愛してあげたかった。それが僕にとっての自己満足だって気付いたから一緒に暮らそうと思った。
 『聖の父親は自分だ』って大声で言ってあげられるようになって欲しい、そんな零になって欲しい。

 翌日、保育園に迎えに行ったら楽しそうにススキを握り締めて走ってきた。
「もうすぐね、十五夜なんだって。おだんごをね15個ススキと一緒にお月様にね『おそなえ』するんだよ。」
 ニコニコと跳ねるように歩く。
「十五夜かぁ…。」
 僕は空を見上げた。まだ白い月が恥ずかしそうに浮かんでいる。
「本当だ、もう少しだね。」
「実紅ちゃん、おだんごつくれるかなぁ。」
「…実紅ちゃんは多分もう来ないと思うよ。」
「僕が行くんでしょ、パパのおうちに。」
 聖、夕べの話聞いていたんだね。不覚にも涙が溢れてきた。
「聖は僕のこと嫌い?」
 繋いだ手に力が入った。
「ううん。でも、僕がいると零君も陸も困るんでしょ、だからおうちに帰る。」
「困らないよ、いないほうが困るけどね。でも聖が帰りたいなら…」
 大きく首を左右に振った。
「僕…零くんと陸が好きだから一緒にいてもいい?良い子にするから…ちゃんと一人でお留守番してる。わがまま言わない、夜になったらテレビ見ないで寝る、らっきょうも食べるから…帰りたくない。」
 僕は思った。
 きっと涼さんは、この間の零の誕生日に会った聖が可愛かったから取り返したくなったんじゃないかって。
 そんなことさせやしない、僕が聖の居場所を守ってあげる。
「聖の帰る場所は僕達の所だよ?いいね。誰がなんて言っても守ってあげるからね。」
 零は分からないんだ、生まれた時から背を向けられている者の気持ちなんか。僕はずっと聖の味方でいてあげなきゃいけないんだ。
「そうだ、今夜は零がカレーライスを作って待っているからね、早速実行してもらおうかな、らっきょう。」
 うえっ、て顔してその後に笑った顔はいつもの聖よりちょっとだけ違っていた。

「ねぇ、聖はママのこと好き?」
 ちょっと唐突だったかな?約束通り『らっきょう』を口に放りこんで何回目かの咀嚼で質問された聖は慌てて飲み下してむせた。
「ママ?んー…わかんない。」
「僕は好きじゃない。」
 そう、僕はママが好きじゃない、だってあの人のやったことって何人もの人間を平気で傷つけている。
 子供の頃ママが欲しかったのは皆にいたからだよ。
 同級生と同じでいたかっただけ。今はいらない、いなくてもいいんだ。
 いつまでも僕の零の心を束縛し続けるママが嫌いだ。
「聖、僕にはパパがいてくれたんだ、いつも、いつも。仕事でいない日もあったけどそんな時は必ず同じ時間に電話してくれるんだ。だから寂しくなかった。零もいたし。
聖には零も僕もいるからね。」
 と、そう言う訳だから零。
「涼さんにはきちんと僕から断る、零には言えないだろ?」
 零が笑い出した、止まらなくなるくらい笑った。…なんか腹が立ったけど…次の言葉を聞いて納得した。
「陸は意地っ張りだなぁ。そんなに聖と別れたくないんだ。分かったよ、涼ちゃんには言っておくから、心配しなくて良い。時々気付かされる、陸は本当に弟だなって、考えていることが似てる。迷ったのは聖のためだ、一人の時間が多すぎるのは可哀想かと思ってさ。僕の感情はその次だよ。」
 似てなんかいない、僕は自分の感情が一番だった、ごめん。
「ここにいていいの?十五夜も十三夜もクリスマスもお正月も、学校もここから行って良いの?」
 聖が今一番楽しみにしているのは小学校に入学すること。ランドセルを背負ったら小さいから潰れちゃいそうだな。
「ここには…いられないかもしれない。」
「零?」
「なんてね、本当は涼ちゃんに相談に行ったんだ、というより借金しに行ったんだけど。」
「お金、ないの?だったら僕に言ってくれればいいのに。」
「もう少し広いところに引越しをしようと思ってさ、そうしたらここ売っても良いって言ってくれたから。」
 あっ!やっぱりこのマンションは涼さんの持ち物だったんだ。って、当たり前か。
「二人とも手伝ってくれるよな、僕達3人が一緒に暮らすために、ちゃんと涼ちゃんから独立したいんだ、誰の援助も受けないでやってみたい。借金だったら返していけばいつかは無くなるだろ?僕らのような仕事だと銀行から借りるのって難しいんだ、だから涼ちゃんから借りようと思ってさ。そうしたら聖の入学式には涼ちゃんが行きたいなんて言うから…。」
「えーっ、零くん来てくれないのォ?」
 聖ががっかりしたような声で叫んだ。
「それは断ってきた。僕が行くからって、ちゃんと言ってきたよ。一人息子の入学式くらい行きたいもん。」
 最後の方はとっても照れくさそうにしていた。
「もう迷わない、ちゃんと大人になる。聖に僕が父親だって胸を張って言えるようになってみせる。」
 そう言った零はいつもより…カッコ良かったよ。

「で、どこに引っ越すの?大体決めているんでしょ?」
 結局僕が貰っちゃった写真集を眺めながら初ちゃんにこの間借りた映画のビデオを見ている零の横でなにげなく質問した。
「…近くに…越そうかと思って。」
 近く、って?
「ここって涼ちゃんが仕事場にしていたんだ、昔。もっと近くにあったほうが便利だって言っていたし。」
 あぁ、実家の近く、ね。零…言ってることがめちゃくちゃだよ。
「それに、あきらちゃんと別居していた時住んでいた所だし。」
 僕はページをめくった。
「零、急がなくっていいよ。パパも、全然他の家のパパみたいじゃなかったよ。突然パパになっちゃったんだもん、誰にも教えてもらったわけじゃないんだし、聖と一緒に大人になろうよ?もちろん僕だって一緒だよ。」
 零が真っ赤な顔をして俯いた。
「この間…陸に言われたこと、事実だから怒った。ごめん。」
「なんのこと?」
 分かっていたけどしらばっくれちゃった。
「意地悪だな、陸は。」
 零が光源氏だったらママは藤壺、そうしたら聖は冷泉帝ってことで…僕はなんだろう。
 ううん、零は零で誰でもなくって僕も僕で誰でもない…写真集を閉じた。
 零の前に回りこんで膝の上に両手をついてその少し乾いた唇に自分の唇を重ねた。零の体重を支えていた両腕が僕の背中を抱きにきた、でもそれだけだった。ずっと、じっと抱きしめられたまま胸の鼓動を聞いていた。
「陸は、ずるい。いつもいつも僕は君に恋している、気持ちを向けさせるセリフばっかり言うんだ、だから…自分の未熟さに気付いて落ちこむんだ。」
 腕の中で甘えたままの姿勢で零に分からないように微笑んだ。
「僕がこうやって甘えるのは零だけ。甘えさせてくれるのは零だけだもん。…好きだよ。」
「ほら、また。」
「あの本…誰がくれたの?…剛志くん、でしょ?」
「知っていたんなら聞くなよ。」
「えっ、本当?」
「うん…陸が好きなの知っていたよ、なんで?」
「僕にくれたの?」
「そうだよ。ねぇ、なんで剛志が…」
 ゆっくりと身体を動かして向き合ったまま膝の上に腰を落とした。
「まだビデオ、終わらないの?」
「いいよ、別に明日でも明後日でも。どうせ初に借りたんだから。」
 どうして剛志くんが知っているのかって…?知らないよそんな事。僕は彼に興味無いもん、仲間として以外は。

「わーい、お団子っ。」
 そんなに喜ばれると困る。作り方が分からなくて、和菓子屋で買ってきたから。
「十五夜なんて何年振りにやるかなぁ。知ってる?十五夜をやったら十三夜もやらないといけないんだって。」
「なんで?」
「知らない、そう言われた、ばーちゃんに。」
「ふーん…僕十五夜も十三夜もやったことないから知らない。」
 ベランダにテーブルを持ち出してちょっとくたびれたススキと団子を飾り付けて…夜空に浮かぶ月に手を合わせてる…願い事って叶えてくれるんだっけ?
「何お願いしたの?」
「へへっ、ひみつ。」
 やっぱり…可愛いっ、聖と離れて暮らすのなんてもう絶対出来ない。
 部屋の中を駆け回る聖を掴まえて抱きすくめた。
「聖…大好きだよ、どこにも行かないでね。」
「うんっ、どこにも行かないよ…。でも学校は行っても良い?」
「当たり前だろ、聖には一杯お勉強してもらって偉い人になってもらって…」
 僕達みたいに片親とか容姿の違いとかで後ろ指を指されないように、そしてホモとかレズとか同性愛者が偏見を持たれないようなそんな世の中を作ってくれるような、っていうのは僕の勝手な理想。
 聖にはやりたいことや夢が有るだろうから決して僕の考えを押しつけたりしないからね。
「陸…僕も陸が大好き。いっぱいお勉強して偉い人になるね。」
 そういった唇がそっと僕の唇に触れて離れて、俯いた。
「陸にちゅっ、てすると後で零くんに怒られるんだ。だから内緒だよ。」
 この親子は素直で可愛い、もしも僕のこと、話したら…零はどうするのだろう…いや、今は考えないでおこう、この幸せな気持ちを失いたくないから、もう少しだけ…。
「僕もお月様にお願い…してみようかな。」
「だめ…そんなことしたら僕のお願いお月様聞いてくれなくなるから。」
「どうして?」
「どうしても。」
 ふーん…どうしてなんだろう?