「…んっ」
僕は息を詰める。
「…れ…いっ…れいっ…」
何度も何度も愛しい人の名前を綴る僕の唇。
「うぅ…っ…あんっ、…落ち、る…」
「で?何で『落ちる』わけ?びっくりしちゃったよ、ベッドから落ちるのかと思って確認しちゃったじゃないか。」
「ごめん…でも…『落ちる』って感じだったんだ…イク…って感じじゃなかったんだよぉ。」
わざと鼻に掛かった声で甘えて話す。
「ここでこうして零と寝るのも今夜が最後だもんね…。」
いよいよ明日は引越し。聖の保育園が先週卒園式だったからね。
春から聖は小学生。零も僕も…パパも涼さんもママも通った小学校だよ。
「…って陸、聞いてる?」
「え?」
「…もう1回言わせるのかよぉ。」
「何を?」
「だから…最後だから…して。」
?
何?
え?
「僕も『落ちて』みたい。」
!
「零・…」
「なんだよ」
「…大好き」
言葉を発するのと同時に僕は零の身体を抱き締めた。
今夜こそ零を乱れさせてみたい…僕が、零を…。
寝不足気味の僕達を余所に淡々と荷物が造られ運び出されて行く。
聖がそれを面白い遊具を見つけたときの様に瞳を爛々と輝かせて見つめている。
「新しいマンションには聖の机がもう届いているはずだよ。」
「僕の机?お勉強しなきゃいけないの?なんかやだなぁ。」
「何行く前からそんなこと言っているんだよ、学校行って勉強しない子は嫌いになるからね。」
「あーん、ごめんなさーい、ちゃんとお勉強しますぅ…でも陸は学校で何が好きだったの?」
ドキッ…
「えっと…んー…全部好きだったよ。好きと得意は別だからね。」
違う…小学校の時僕は何時だって零の背中を見つめていた。
**********
毎朝迎えに来てくれるのは零だった。
いつでも僕の手を繋いでいてくれたのも零だった。
なのに僕は顔を上げる事すら出来ないほど、好きだった。
あの時は話も出来なかったんだ。
なのに零はいつだって僕に話しかけてくれた、守ってくれていたんだ。
授業中だって校庭で体育の授業をしていた零を見つけると何の音ももう耳に入ってこなかった。
胸がドキドキして、耳朶が熱くって、すぐにでもその背中に飛びついて甘えたかった。
でも実際そんなこと絶対に出来なかった。本人を目の前にするとやっぱり黙りこんでしまった。
零と夾ちゃんは背格好がよく似ている。
後姿なんてそっくりなんだ。
でも僕にはちゃんと区別が出来たんだ、だって…歩き方が違うもの。
夾ちゃんはちょっと跳ねるように歩くけど零はあまり頭を動かさないで歩く、そして時々後ろを振り返るような仕草をするんだ。
あれは僕を探してくれていたんだって後で零に聞いたときは嬉しかった。
いつでも僕が零の心の中に存在している事が嬉しかった。
零が卒業してその役割が夾ちゃんに変わったんだ。
零じゃない手に引かれて学校に通った。
でも三日目に僕は手を離した。
「夾ちゃん、僕もう4年生だから大丈夫だよ。」
零じゃない手に引かれるのは嫌だったんだ。
歩く速度も違うし…第一、零じゃない。
この頃、クラスメート達の間では「誰が好きだ」とか「誰は誰が好き」なんて話が飛び交っていた。
案の定というか僕もその『噂』の中にいて髪の毛の長い大人しい女の子の事を僕が好きだってことになっていたけど…はっきり言って眼中に無かったからどうでも良かった。
そうしたらどこからどうしてそうなったのだろう、僕が彼女に告白して振られたから夾ちゃんと一緒にいる…ってことになっていた。
どうして零と噂にならなかったのか…それが悔しかった。
たとえ噂だって構わない、零とどこかで繋がっていたかった。
零とはもう2度と一緒に学校に通う事は出来ないのだから…。
**********
「陸?」
不安げな瞳が僕を見上げていた。
「どうしたの?」
「うん、僕が小学校の頃の事思い出してたんだ。」
するとどこからともなく零がやってきて
「陸はいっつもぴーぴーぴーぴー泣いてて朝も寝ぼけ眼で出て来るし、いつでも手を繋いでてやらないとどこかに飛んで行っちゃうんじゃないかと思うくらい軽くって…心配ばっかり掛けられてたなぁ。」
と、赤面させられるような過去のことを言われた。
「そんなに…」
泣いていない…って反論しようとして気付いた。
そうだ、僕は零に「叉明日ね」って置いて行かれるのが凄く嫌だったんだ。
パパがいない時はよく零の家で遊んでいた。
でもばあちゃんがママのことをどうしても許せないらしくて分るとすぐに連れ戻された。
だから大体夕方になると零が僕の手を引いて家まで連れてきてくれるんだ。
玄関先で「バイバイ」って言われるのが切なかったんだ…。
「陸がおばあちゃんに怒られない様に…って早めに帰すと泣くんだよ…人の気も知らないで…。陸に泣かれるのがあの時は一番辛かったな…。いっそのこと2度と会わないでいようかとも思った。でも出来なかった。だって陸ってばめちゃめちゃ可愛い顔で泣くから・・・。」
「もうっ、そんな話は後で良いからぁ、早く荷物造るの手伝ってよね。」
いままでぼんやりしていた僕がなんだけど、照れ隠しのためにそう言ったら2人して笑うんだ…失礼しちゃうっよねっ。
荷物が全て運び出された部屋の真ん中で僕は一人呟いた。
「ありがとう・・・」
って・・・。
この部屋で零に想いを告げた、想いを受けとめてもらった、愛し愛された…僕に”未来”という希望をくれたのはこの部屋だった。
だから”ありがとう”…。
「まぁ、今日はこんなもんかな?」
引越し業者の人が全て梱包から開封までやってくれて、僕達がする事と言えば今夜の寝床を作ることくらいだけど、それでも結構疲れた。
ベッドは僕達が一緒に暮らし始めた時、「今まで使っていたのじゃ小さい」と言って零が買い換えたからそのまま運び込んだけど、ダイニングテーブルを今回買い換えた。
いつでも友達を呼べるように、大きなテープルにしたんだ。
今までは僕が聖を抱き込んじゃってて聖の世界なんて無かったけど、これからは彼を自由に羽ばたかせてあげたい。
…そりゃ急には無理だと思うけど少しづつ、聖の自我を尊重してあげたい。
んーっ、僕ってなんて大人なんだろう…これって僕の自己満足か?
「なんで?」
その晩、ベッドの中で意外な告白を受けた。
「だって…零、あんなに楽しみにしていたじゃない…それを、どうして?」
「仕事だから。」
「嘘だよ…そんな…」
聖の入学式に行けないと言うのだ。
「駄目だよ、聖が可哀想だよ…入学式に母親が出られないばかりか父親もいないなんて…一人じゃ可哀想だよ…どうして…」
「涼ちゃんが行くから…」
「涼さんがそう言ったの?だったら僕が行く、僕は聖の保護者のつもりだからね。」
いつでも聖のことで零と涼さんは悩んでいる。
「陸…何度も言うけど、僕はどう思われたって良いんだ、事実だから。母親を抱いて妊娠させて…狂わせた。おかしいと言われようとヘンだと言われようと一向に構わない。でも聖に罪は無いんだ。僕が普通の仕事をしていれば良かったのかもしれない、好奇の目に晒されないような仕事をしていればこんなことで悩まなかったのかもしれない。涼ちゃんならそれをクリア出来る立場にいる。今はそれに甘えることにしたんだ。いつか必ず聖は僕の子だって世間の人に胸を張って言える日が来ると信じている。」
真っ直ぐに僕の目を見て語る零はちょっとだけいつもと違っていた。
「学校行事があるたびにこうして涼ちゃんと揉めるけど…あきらちゃんが元気になるまでの辛抱だからさ。」
何時来るか分らない『ママが元気になる日』を待ち続けて聖を不幸にだけはしないでね、零。
引越しから2日後、聖は涼さんに手を引かれて小学校の入学式に向かった。
僕達は黙って仕事先に向かった。
「陸…帰ったらお祝いしよう、聖の入学祝。外では出来ない事を家の中ではちゃんとやってあげたい。」
僕が笑顔を作ったら零は安心した顔で微笑んだ。
零…君は忘れているね。
今日は初ちゃん達とパパ、涼さん、みんなが来て引越し祝いパーティーだよ。
でも…いっか。
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