告白〜好きなのに伝わらない想い〜

 【その日】は、突然やって来た。


「…元気?」
 玄関ドアの向こうに立っているのは…僕の姉…そして義母…。
「実紅…ちゃん?」
 でも僕は母とは呼べなかった。
 僕にとっての母は【加月 あきら】ただ一人。
 そう望んだのは誰でもない【野原 裕二】…パパだったから。
「拓…は?」
 なんとなく気まずい雰囲気が流れてる中、僕は何とか話題を探そうと弟の名前を口にした。
「ママが離さないの。…陸に、似ているって言って…」
 実紅ちゃんはちょっぴり寂しそうに微笑んだ。
 平日の午前中、今日は零だけが仕事で僕は休み。
 聖は学校に行っているので家にいるのは僕だけ。
 どうしてだろう?
 僕は実紅ちゃんがパパと結婚してから二人っきりになるのが怖い。
「そんなに僕に似ているかな?」
「うん。笑ったときの顔が特に似ているの。」
「そうなんだ…」
 人によって微妙に意見が違うものの、『陸に似ている』という点は同意見だった。
 リビングまで通して、僕はキッチンでコーヒーを煎れながら話し続けた。沈黙が怖かった。
「パパは…」
「陸っ、話があるの。」
 僕達は同時に口を開いた。
「何?」
 実紅ちゃんは真っ青な顔をして俯いていた。
 スカートの布を力一杯握り締めていた。
「ごめ…」
 たぶん、ごめんと言いたかったのだろうけどその後の言葉が嗚咽にかき消された。
「実紅ちゃん、泣かないで。どうしたの?」
 実紅ちゃんの隣りに腰掛けてそっと背を撫でた。
 しばらく泣いていた実紅ちゃんは落ち付いたらしく大きく息を吸い込んだ。
「ごめん…なさい。だけどもう、私一人では抱えきれないの。もう、苦しくて駄目なの。」
「?」
 僕には何のことか全然わからなかった。
「この子が生まれて来たら、きっと解ってしまうから…」
 実紅ちゃんは拓を産んですぐに妊娠した、だから今、妊娠2ヶ月になるはずだ。
「助けて…」
 実紅ちゃんの縋る瞳が、再び僕に恐怖心を与える、どうしてだろう。
「お正月のこと、覚えている?」
「正月?」
「零…お兄ちゃんが仕事で、聖がいなかった日、私がここに来た日のこと。」
「ああ、あの時は僕、すごく眠くて寝ちゃった日だよね?気がついたら実紅ちゃん帰っちゃったんだっけ?」
 そうだ、僕はこの日から急に実紅ちゃんが怖くなった気がする。
 拓が生まれた時震えが止まらなかったのは、怖かったんだ。
 突然、今までスカートを握り締めていた手が僕のシャツを掴み、顔を胸に埋めてきた。
「ごめんね、ごめんなさい。だけど…あの時私…陸に薬を使ったの…」
「くすり?」
「眠らせて…強姦したの。」
 ゾワリ
 背中に氷が貼り付いたように寒気が襲ってきた。
「ごうかん?」
 ―女が男を強姦って出来るのか?―
僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
「笑って良いよ、罵っても良いよ、だけど私…陸が欲しかった。陸の子供が産みたかったの、だから1度だけセックスしたかったの。それで妊娠したら裕二さんの子供として一生誰にも言わないで育てようと思ったの。」
 じゃあ…
「拓…は…僕の?」
 胸元で頷く気配がした。
 あぁ、僕は消えない罪を背負わされてしまったの?
 パパを裏切ってしまったの?
「じゃあどうしてパパと結婚したの?それじゃパパが可愛そうだ…」
「陸のお父さんだから。それだけで私は裕二さんに抱かれたの。裕二さんもそれで良いって言ってくれた。お互いに陸に捨てられた同志、慰め合おうって…。だけど一緒に暮らして、拓を可愛がってくれる裕二さんを見て私…愛してしまったの、陸とは違う感情なの。だから…拓を裕二さんの子供と偽るのが苦しくて…どうしたらいいかわからなくて…」
「僕は…どうでもいいんだ?知らずに犯されて、子供ですって言われて…僕の幸せは実紅ちゃんに壊されても、ただ笑っていろってことなんだ?」
「そんなつもり…じゃない…」
「だから…女は嫌いだ。エゴイストばっかり…自分でやったことの後始末も出来ずに泣けば良いと思っている。最低だ。」
 僕は思いきり実紅ちゃんの身体を突き飛ばした。
「帰って。2度と来ないで。」



 パパが、拓の誕生をどんなに喜んでいたか、知っているの?
 はっきり言って、僕にとって拓は『弟』というより『パパの息子』なんだ。
 だから突然僕の子供だって言われたってどうしようも無いよ。
 僕は完全にパニックになっていた。
 そして先程実紅ちゃんを突き飛ばしてしまったことの重大さに気付かなかった。
 部屋の中を動物園の熊の様にウロウロしながら「どうしよう」を繰り返していた僕は間の抜けた携帯電話の着信音で現実に引き戻された。
「もしもし?」
『あっ、陸?』
「あぁ、ばぁちゃん。元気?」
『大変なんだよ、実紅ちゃんがね、流産しそうなんだよ。』
「えっ?」
『裕二もじいちゃんもいないし、実紅ちゃんの実家は…ボケた女しかいないし。』
 ボケた女って言うのはママのことだ。
「夾ちゃんは?」
『知らないよ、あんな子』
「そんなこと言っている場合なの?救急車は呼んだの?」
『救急車?あっ、そうね。』
「すぐ行くから待ってて。」
 僕がさっき突き飛ばしたからだ、ごめん、パパ。
 玄関ドアに鍵を掛けて僕は部屋を飛び出した。
 夾ちゃんに頼っても精神科だから駄目なのは解っているけど、つい頼ってしまうのは僕の悪い癖。
 走って行ったけど、パパの家の前には丁度救急車が到着した所だった。
「陸。」
「ばぁちゃんもいっしょに来て。」
「うん」
 僕はとりあえず救急車に一緒に乗り込んだ。
「どうしよう、どうしよう…この子さっき何処かへ出掛けたのよ…その時転んだのかしら?」
「…僕の所に来たんだ。」
「え?」
「僕の所に来ていて…僕が突き飛ばした。」
「どうして?この子何かしたの?」
「ちょっとね、姉弟喧嘩だよ。」
 そう言うとばぁちゃんは露骨に嫌な顔をした。
「そうなのよね、実紅ちゃんはあの女の子なのよね…良い子なのに。」
「僕だってママの子だよ。」
「ママなんて言わないで。」
 ばぁちゃんがキツイ口調になってきたのでとりあえずこの会話を止める事にした。
 ばぁちゃんの腕の中にはすやすやと寝息をたてている拓がいた。
「ばぁちゃん…拓…抱いてもいい?」
 知らぬ間に僕はそう言っていた。
「いいけど、気を付けてね。」
 もうすぐ3ヶ月になろうという赤ん坊はまだ小さかった。
 パパにもそして実紅ちゃんにもじいちゃん、ばぁちゃんにも皆に愛されている、拓。
「ママは…拓に会いに来るの?」
「しょっちゅうよ。まぁ、あの女もこの子の祖母になるんだから仕方ないわよね。」
 ばぁちゃんは蕩けそうな笑顔で拓の顔を覗き込む。
「寝顔が陸にそっくりなの。だから…次の子もきっと可愛いに決まっているの。」
 独り言の様に、でも僕に言っていたのだろう、ばぁちゃんが呟く。
 だけど、やっぱり僕に似ているという…。
「裕二がやっと普通の生活が出来るようになったのに…」
 そうだね、パパはもう苦しまなくなったもの。
 ママ以外の人を愛せなくて傷ついて傷つけられて、僕を盲目的に愛した…そんなパパが平凡な生活を手に入れたのに。
 僕に実紅ちゃんを責める権利は無いのかもしれない。
 まだ片想いしていた時、零に抱いて欲しいと言ったのは僕だ。
 もしもあの時、零が僕を拒んでいたら僕はどうしたのだろう…。
 きっと実紅ちゃんと同じような事をしたのかもしれない。
 僕はたまたま恋が報われた。
 実紅ちゃんは僕が弟だって知らなかった。
 辛い心を引きずって、寂しい心を持て余していたパパと気持ちを触れ合わした。
 人が、人を恋する事を誰が責められるのだろう…。
 過ぎてしまった事を責めても仕方のないことだから、これからどうしたらいいかを考えなければいけないんだ。
 モゾリ
 腕の中で拓が身じろいだ。
 救急車が病院に到着した。



「可愛いね、拓ちゃん。」
 家の留守電に病院にいる事を告げておいたら、聖が飛んできた。
 何故かばぁちゃんは聖だけは好きで、顔をみると抱き寄せて頬ずりをした。
「うにぁ〜おばあちゃん、拓ちゃんが見えないよぉ。」
 二人のやりとりを僕は黙って笑いながら見ていた。
 とても病院の待合室という光景ではなかっただろう。
「母さん、実紅は?」
 そこに、息せき切って駈け込んで来たのはパパ。
 とたんにその場に居合わせた女性全員が色めき立った。
「今治療してもらっているけど、しばらく入院すると思うわ。」
 流産はとりあえず免れたのだけれど、すぐには動かせないらしい、まだ病室にも行けないから。
「パパ、僕達帰るね。これ以上いても邪魔になっちゃうから。拓も預かっているから後で連れに来てね。」
「悪い、頼めるか?」
「うん。ミルクとおしめ、家から貰って行くから。」
「ごめんね、陸。折角お休みだったのに。」
「平気だよ、僕のせいだから…」
 口端だけ持ち上げて笑顔を作ってみたけど、きっと引き攣っていたと思う。
 拓のこと、零に話すって決めたんだ。
 僕は零に隠し事はしないって誓ったから。



 パパの家から、拓のお散歩用の籠を持ち出してそこに寝かし付けた。
 聖は嬉しそうにずっと拓のことを覗き込んでいる。
 僕は仕事から戻った零に実に淡々と話した。
 実際他人事だったのだ、僕にとっては。
「自覚は…なかったのか?」
「全然…」
「本当なんだろうか?そんなこと出来るのだろうか?」
「僕もそう思うけど…でも本人しかそれは知らないんじゃないかな?」
「だけど…妊娠するってことは、射精するってことで、射精するってことは…達ったってことだよな?」
 零…真面目な顔で言わないで…恥ずかしい。
「…陸…それって…いつだ?」
「1月6日って言っていた。」
 ―あの日、ACTIVEのメンバーは事務所…現在は別の場所に移ったけど当時はまだパパが自宅兼事務所にしていたので実家にあったんだ…とレコード会社に新年の挨拶回りをして、零は早速ラジオの録りがあったので僕だけマンションに戻った。
 聖を幼稚園に迎えに行ったら「今日はお姉さんが迎えに来た」と言われたんだ。
 僕は急いで実紅ちゃんに電話を掛けたら、「今連れて行く」と言って電話を切られたのにそれから10分もしないうちに実紅ちゃんは一人でやって来た。
 あの時はまだ引越ししていなかったから前に住んでいたマンションだ、早くても一時間は掛かるはず…。
 なのに実紅ちゃんは平然として「さつきさんが聖に会いたいって言うから無理しちゃった」ってそう言った。
 ちなみにさつきさんはばぁちゃんのこと。
 お弁当を抱えて、実紅ちゃんはやって来た。
 そのお弁当を食べながら僕たちは聖のこととか、パパとのこととか久しぶりに色々な話しをしたんだった。
 そのうち僕はウトウト…っとして、実紅ちゃんが「寝るならちゃんとベッドで寝ないと駄目だよ」って言ったから「うん」って言って…。
 その後は…零が帰ってきてびっくりして飛び起きたんだった。―
「拓って月足らずで産まれたっけ?」
「ううん、ちゃんと予定日に…あれ?」
「だろ?おかしいだろ?」
 確かに、拓が産まれたのは9月12日だから…。
「夾の出番かな?」
 全身の力が一気に抜けた。
 違ったんだ、僕の子供じゃなかったんだ、良かった…だけど実紅ちゃんはどうしてあんな嘘をついたのだろう…。



「嘘じゃないもの。」
 翌日、病院を訪れた僕に衝撃の一言。
「大きな声では言えないけど、私病院で嘘を言ったの。最後の生理日を2週間早く伝えたの。そうすれば誰にも怪しまれないと思って。」
 零も僕も何のことか解らずに実紅ちゃんの話しを聞いていた。
「あのね、妊娠って一番最後に来た生理の始まった日から数えるのよ。セックスした日じゃないのよ。拓は大きな子だったから誰も気付かなかったの。」
 実紅ちゃんは幸せそうに笑った。
「零ちゃんには出来ないことが、私には出来るの。裕二さんが欲しがっていた陸の赤ちゃん…拓がそうなの。」
 満足そうに目を細めた。
「…実紅が病人じゃなくて、女じゃなかったら…ぶっ飛ばしてるぞ。」
 零が一歩、足を前に踏み出した。
「陸は人形じゃない、そしてお前の好き勝手に出来ることじゃないだろう?ましてや人一人の命と人生を大きく左右する事になる重大な事を自分勝手に押し進めてて、負担になったからってべらべらしゃべりやがって。一生、お前の腹ん中におさめとけ。」
「嫌よ。」
 即答だった。
「だって私だけが知っているんじゃ意味が無いもの。陸に知っててもらわなきゃ、一緒の秘密で無くなってしまうもの。」
「初めからそのつもりだったんだな?お前は…」
 毛布を頭から被ったまま、実紅ちゃんは哄笑した。
「陸が話してしまったならしょうがないもの…そうよ。陸が責任を感じて家に帰ってきてくれればってそう思っていたからわざわざ話しに行ったに決まっているじゃない。」
「パパに…言うつもりだよ、僕は。」
 零の腕に縋りながら立っていた僕は、焦点の定まらない瞳のまま、二人にそう、告げた。
 実紅ちゃんは音を立てて毛布を剥いだ。
「パパは…モラルに欠けているんだ、ちょっとね。」
 モラルを持っていたらいくら溺愛している息子と言えども『あんなこと』は出来ないよ…。
「パパに話して、謝って…僕、拓と一緒に暮らすよ、二人で…」
「駄目よっ、拓は私の子よ。例え陸の精子をもらったって、産んだのは私だもの、渡さないわ。拓は私と…そして裕二さんの夢だもの。」
 狂気に満ちた表情でベッドをグラグラ揺すりながら絶叫した。
「野原さん、何しているんです?駄目じゃない大人しくしていなきゃ。」
 看護婦さんが声を聞きつけやって来た。
 そして僕達のほうを見て、「興奮させたら駄目でしょ?帰りなさい。」と命令口調で言われた。



「兎に角…パパに話すよ。うちに連れて行ってくれる?」
 病室を追いたてられた僕達はすごすごと病院を後にした。
「話したら…傷つくよ。」
「僕だって…傷ついてるよ?」
「でも…」
 零の運転する車は駐車場から車道に出た。
「さっきさ…パパはモラルがない…って言ったでしょ?理由、聞いてくれる?僕は絶対に零を責めなかったでしょ?ママのこと…嫉妬はするけど零は悪くない…だって…僕は…」
 解っている、これを言ったら今度は零が傷つく。
 だけど決めたから…零に隠し事はしないって。
「パパに…えっちなこと、されたことがあるんだ…」
「ちょっ…ちょっと待って…」
 零が僕を制止した。
「家、戻ろう。」
 歩いてたった10分の病院までの道のりをわざわざ車で行ったのは零が一緒だから。
  この間、パパが病院に駈け込んだだけで静かでなければいけない病院がざわついてしまったから、今日は裏からこっそり入った。
 零は方向転換をして、マンションに戻った。
 玄関に辿り付き、鍵を掛けるとすぐに零は僕を振り返った。
「どういう…ことだ?」
 僕は出来るだけ平静を装って、靴を脱いだ。
「どういうって…そのままだよ。」
「僕が最初だって、そう言ったじゃないか。」
 零の口調が怒っている。
「うん、初めてだよ。それにパパは出来なかったんだよ、ずっと。ママ以外の人とは。だから僕を見たって勃つことは無かったよ。」
「じゃあ…どういうことだよ。」
 少し安心したように今度は拗ねたような口調。
「…僕が…その…零を想って一人でしてたとき…見つかっちゃって…それから毎晩のようにパパがしてくれたんだ…。」
 は・恥ずかしい…。
「何で拒まなかったんだよ。」
 ムッとした口調。
「それは…最初は抵抗したけど…縛られちゃったんだ。逃げられなくて…でも、すっごく気持ち良くって、零にしてもらってるって思えば平気になっちゃって。」
 僕もモラルが無い…。
 ふっ…と、自分の身体が宙に浮いた。
 実際は抱え上げられただけなんだけど。
 寝室に連れ込まれてベッドの上に落された。
「零…」
 やばいっ、焦点が定まっていない。
 かなりキレてる。
「服、全部脱いでどんな格好でさせたのか再現してみろ。」
「いやだ」
 ボロボロボロ…突然大粒の涙が零の瞳から溢れた。
「陸は僕だけのもんだと信じていたのに…」
「零だってママと寝たのに?剛志君とセックスしたのに?他にも僕が知らない人とセックスしたじゃないか。」
 言ってしまってからハッと気付いた、これは言ってはいけない台詞。
 零は僕に背を向けて、玄関を飛び出して行った。


 どれくらいの時間が経過したのだろう、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 確か今日は夕方から仕事があったはず。
 でも携帯は切ったままだ、病院に行ったからね。
 鉛のように重い腕を持ち上げて電源をONにする。
 まず、留守録をチェックする。
 当然のように斉木君から電話が入っていた。
 次に零に電話する、しかし…出ない。
 コールはするけど出ない。
 仕方ないので斉木君に電話をした。
 何処にいるのか聞かれて家にいると伝えた。
 零はいるかと訊ねたら、いないと言われた。
『一緒じゃないんですか?零さんと。』
「うん、ちょっと…ね。」
『犬も食わぬ…ってやつですね?』
「だといいんだけどね。」
 ふぅーっ、と大きく溜息をつく。
 ふと、聖はどうしたのだろうと気付いた。
「ごめん、聖が…」
『聖くんがどうしたんですか?』
「気配が無い」
 慌てて部屋を飛び出す。
「いない…」
 聖の部屋の机の上にランドセルがきちんと置いてあると言う事は1度帰ってきているってことで。
 全ての部屋とクローゼット、トイレからバスルームまで覗いたけどいなかった。
「どうしよう…聖が、聖がいないよ。」
『野原さんっ、加月さん来ました。えっ、あっ、ちょ…』
『陸、何してる?あと10分で本番だぞ。』
 突然耳に流れ込んだのは零の声だった。
「あっ…でも…」
 間に合わない、ここからではどんなに急いでも45分はかかる。
 そんなことより…。
「零、聖がいないんだ。」
『何?』
「帰ってきたみたいなんだけど、何処にもいなくて。」
『あきらちゃんとさつきさんには連絡したのか?』
「まだ。」
『すぐ連絡して、僕も帰るから。』
「仕事は?」
『あっ…ってお前がいなくちゃ仕事は出来ないだろう?キャンセルだ。初、陸が体調悪いってことで…』
 電話の向こうで零が嘘を吹き込んでいる。
 家の電話からまずママの所に電話をしたがいなかった。
 次にばぁちゃんに電話を掛けたら、パパの所にいると言う。
「ごめん、ばぁちゃん引き止めといて。」
 僕は電話を切った。
「零、パパの所にいた。」
『どうして裕二さんの所に?』
「わかんない。だけど行って見る。」
『うん』



「聖くんは、陸が好きなのか?」
「うん、大好き。零君も大好きなんだ。だから二人が困っていたら僕が助けてあげなきゃっていつも思っているけどなかなか出来ないんだ…。」
 ダイニングテーブルで頬杖をついて足をぶらぶらさせながら、聖はパパと話しをしていた。
「聖…」
「あれ?陸なんでここにいるの?」
 両目を大きく見開いて僕を見た。
「何で…って、聖がいないから…」
 ホッとしたら涙が零れてきた。
「聖がいなかったから、僕…こんなんじゃ、保護者になんかなれないよ、ごめん。」
「駄目だよ、陸泣いちゃ。男の子だろ?」
 聖がどこで覚えてきたのかそんな台詞を口にした。
「拓ちゃんはね、陸パパの拓ちゃんだから。」
「聖…」
 パパが椅子から立ちあがって僕を抱きしめた。
「実紅が言ったことは嘘だから。あの子はそんな気になっているんだ。―初恋が陸だったんだそうだ。ずっとずっと恋焦がれていたのに陸が半分血の繋がった弟で、しかも女に興味が無いと、零君にしか心が揺れないと知って行動を起こしたのは事実なんだ。弁当を作っていたのは気付いていた。台所のシンクの上に睡眠薬の袋が落ちていたんだ。だから変だと思って後を着けたら陸の所へ入って行ったから急いで母さんの所に聖くんを迎えに行った。実紅が陸に頼まれたと言って聖くんを連れてきていたのも知っていたからね。部屋に入ったら…二人ともダイニングテーブルに突っ伏して寝ていたよ。実紅も一緒に弁当を食べちゃったみたいだ、弁当箱が空っぽだったからな。で、陸をベッドに寝かせて、実紅と聖くんを連れて家に帰ったんだ。」
「陸パパ、いいの?お話しても。」
「うん、男の約束だったよね、誰にも言わないって。」
「そう、『女に恥をかかせちゃいけない』だよね?」
「そうだよ、聖くんは良い子だ。」
 ワシャワシャと聖の頭をパパが撫でる。
「陸…」
「ん?」
「仕事、穴あけたな?」
 ドキッ
「皆に謝ること。そして零君にな。」
「うん…」
 零…でも怒ってるよね、僕があんなこと言ったから。



 聖を連れて家路に着いた。
 通い慣れてしまったこの道順。
 今のマンションに越してから何回、この道を通っただろう…。
 僕はいつまで経っても大人達に迷惑を、心配を掛けている。
 パパが僕に自慰をさせてくれなかったのは、パパにとっては性は解放するべきだっていう信念があって…まぁその信念は僕に限ってらしいけど…恥ずべき行為だと思わせたくなかったらしい。
 だから僕は零に抱いて欲しいって言えたんだ。
 パパがいたから僕は零と結ばれたんだよ。
 だけどやっぱり零にはいやなことだったんだろうな…言わなければ良かった。
 隠し事はしたくなかった。
 今まで言えなかったから言わなかったけど、相手の為に敢えて隠しとおさなければならないこともあるんだよね。
 それと言ってはいけないこと…これはちゃんと自覚していないとつい口を滑らせてしまうから、いつも心に念じておかなければ…。
 ポケットの中で携帯電話が鳴った。
 着信は零からだ。
『陸?聖は見つかったのか?』
「うん、ごめんね。」
『なんで陸が謝る?』
「僕が、ぼんやりしているから…」
『それだったら僕だって、陸を置いて一人で飛び出したりして…ごめん。今仕事が終ったから、すぐに帰る。』
「うん、待ってる。あのね、零…拓ね、ちゃんと弟だったよ。」
『そっか…良かった。』
「うん。それとね、」
『悪い、帰ってから聞く。』
「そうだよね。早く帰ってきてね。」
『…遅くなった原因が言う台詞とは思えないけどな。』
「ごめんっ」
 その夜、僕が平謝りに謝ったのは言うまでも無い。



「ショックだった…陸にイヤラしいことして良いのは僕だけだって思っていた。だけどさ、もしかしたらそれはエゴじゃないかって気付いたんだ。」
 僕は急いで首を左右に振った。
 その僕の身体を零は優しく抱きしめた。
「でも、やっぱり駄目だ。今日以降、誰かが陸に触れたら…ぶっ飛ばすっ。」
 ぞわっ、思わず総毛立ってしまう。
「好きだ。」
 ズキッ
 たったそれだけの言葉なのに、僕の涙腺は弛んでしまった。
「零…もしも僕が誰かの腕に抱かれることがあったら、その時は僕を責めて。零を苦しめるような僕は、僕が許せないよ。」
 そっと、唇を重ねた。
「あのぉ…」
 眠い目を擦りながら、聖が僕達の前に立っていた。
「おしっこ…行きたいんだけど…」
「ご・ごめんっ」
 僕がリビング入り口のドアにもたれかかっていたから、零もソファから立ちあがっていて…こんな場所で抱き合ったり、キスしたりしていたら確かに邪魔だよね。
 僕達は慌ててベッドルームに逃げ込んだ。
 バタン
 ドアを閉めて電気のスイッチに手を掛けた時だった。
「このまま…」
 そういって零は、僕の身体を抱き上げた。
 ボスッ
 昼間と同様にベッドの上に落された。
「僕の…過去のことは謝らない。だから陸の過去ももう気にしないようにする。」
 そう言いながらパジャマのズボンを剥ぎ取っている。
「たいしたことじゃ…ないもんな。」
「いや…ぁっ」
 冷気に曝されて縮こまっていたものは、温かい掌の中で硬度を増して行く。
 くちゅっ
と、音を立てて零の舌が唇が僕を翻弄する。
「あっ…あぁ…」
 何回でも何十回でも何百回でも零と抱き合いたい、こうして乱して欲しい…。
「零っ…零…れ…い…っ」
 もうっ、なんも考えられない…



 バタンッ
 遠くでドアの閉まる音が聞こえた。
 だからもう朝なんだなって思って…。
「零っ」
 僕は飛び起きた。
「今日は9時までにスタジオに入るんじゃなかったっけ?」
「んあ?」
 時計を見ると8時、と言うことは今のドアの音は聖?
 毛布に躓いて、転がる様に部屋から飛び出すとダイニングテーブルの上に目玉焼きと食パンの袋とマグカップが置いてあった。
「ごめん、聖…」
 一人で朝ご飯を食べたんだね。
「って、感傷に浸っている時間は無いっ。」
 部屋に戻って急いで下着を身に着けて零を起した。
「零、行くよっ。」
「ん…もう、駄目…」
「駄目じゃないっ、行くんだってば。」
「ん、頑張る…」
「零ぃっ」
 …今日も遅刻の様です…とほほ。






 僕はこれで全てが解決したんだと、拓はパパの子供なんだと、本当に信じていたんだ…だけどこれはまだしばらく、尾を引くことになるのだった…。