「ん…」
目覚し時計はまだ鳴っていない、午前6時。よっしゃ、今日は完璧だ。
目覚し時計のタイマーを解除して、零を起さないようにそっとベッドから抜け出し、パジャマを着替え…はっ、今朝は着ていない…誰も見ていないけどちょっと恥ずかしい。
急いでジーンズとトレーナーを着込んで、キッチンへと急ぐ。
そう、今日こそは聖を送り出すんだと、張り切っているのだ。
サラダと卵料理とトーストにスープ。
零のためにはコーヒー豆を挽く。
聖にはココアを入れようか、それとも果汁100%のオレンジジュース…。
とりあえず…ちょっと待て。
…僕はバカだ。
今日はツアー最終日、夏休みじゃないか。
長旅からマンションに戻ってきて、なんとなくホッとしてしまったからなんだか聖は学校に行くような気になっていた。まだあと 何日か残っているのに。
それに、今日は零の誕生日だ。
…すっかり…忘れていた。
さて…どうしたものか。
仕方ない、朝ご飯の続きを作りながら考えよう。
冷蔵庫から卵を取り出す。今日は…オムレツにしよう。
常温に戻しながら、先にレタスの葉を千切る。ばあちゃんがレタスに包丁を当てると繊維が切断されるから鮮度が落ちるって言っていた。確かに包丁で切ると直ぐに萎びてしまう。
あとはプチトマトと貝割れ大根でいいかな。
オムレツの中身は豚の挽肉とミックスベジタブル。簡単でいいや。
あ、コーンのクリーム缶、切らしていたんだった。じゃあ、たまねぎを刻んでコンソメスープにしよう。
たまねぎを刻んでいたら聖が起きてきた。
「おはよう。今顔洗ってきて手伝うからね。」
「おはよう。ありがとうね。」
聖って…悪い奴に狙われちゃうんだろうなぁ…やだなぁ…護身術でも習わせようかなぁ…なんて零に相談すると絶対に笑われるから止めよう。
それより零の誕生日だ。
会場に行く前にどこかで…いや、今日は駄目だ、確か開始前にバックステージの取材が入っていたはず。
だったら…午前中は…無理だろうなぁ。
僕としたことが、零の誕生日の準備をしていないなんて。
でも、仕方ないよね?ツアー中だし、戻ってきたばっかりだし、買い物に行く暇なかったし…。
駄目駄目。
僕は零の人生の伴侶になったんだし、こんな考え方は駄目。
ちゃんとお祝いしてあげなきゃ。
だけど…。
「コーヒー豆、どれ位挽く?」
聖が洗面所から戻ってきて早速戸棚から豆の入ったサーバーを取り出してきた。
「濃い目にしたいから…少し細かく挽いてくれる?」
「はーい」
計量スプーンで計りながら、ミルに入れている。
「サイフォン、温めておかないとね。そうだ、聖は何がいい?ココア?ジュース?」
「ミルクティーがいい。」
おや、意外な回答。
「OK。じゃあ牛乳が必要だね。」
冷蔵庫を開けると賞味期限内で未開封の牛乳が入っていた。
「聖、牛乳買っておいた?」
「ううん。」
「ママかな?」
「あっ、それ夾ちゃんがくれた。みかんの分だって。」
「そっか。なら少しもらっちゃおう。」
「いつも一緒に飲んでいるから大丈夫だよ。」
…今夜はみかんも連れて行こうかな?駄目かな?
挽肉とミックスベジタブルを炒めたら、部屋中に良い匂いが立ち込めた。
そろそろ零が出てくる時間だ。
「コーヒー、煎れてくれる?」
「はーい」
聖はサイフォンがお気に入りで、いつも出来上がるまで前から離れない。
卵で具を包んだら出来上がり。
トースターでパンが焼きあがるのを待つばかり。
さて…零の誕生日だよ…。
午前7時30分。
朝食が済んで後片付けが終わったところで、リビングのソファに腰掛け、考える。
まだお店はやっていない。それより何をプレゼントするかだ。
何か買ってあげる…のではなくてもいいのかもしれない。
零にお祝いしてあげたいって気持ちがあれば、それが一番なんだよね。
「さっきから何してるの?」
零の腕が背後から伸びてきて、僕の身体を捕らえる。
「まだ時間あるからさ、しよ?」
何を?
「聖は夾のとこ行ったしさ。気の利く子だね、あの子は。」
トレーナーの下に零の手が入ってきて、僕の胸を弄る。
「やっ、んっ…零…」
駄目駄目〜流されたら…
「あんっ」
午前10時。
信じられない、朝から2時間半も…。聖が帰って来たから慌てて身体を離したような感じだった。お陰で聖から変態呼ばわりされた、確かに。
身体の奥に、零の名残が疼いている。立ち上がったら溢れ出しそうなくらい一杯注ぎ込まれた。
僕は急いでバスルームに向かった。身体のあちこちで零の匂いがする。大好きな零の匂い…。
だから〜ぁっ。余韻に浸っている場合じゃないんだよね〜。
どうするんだよぉ〜。
「陸ぅ、早くしないと遅刻だよぉ…」
えーん…。
午前11時。
零と僕は別々に車を出した。今夜はゲストが多いので、万が一のことを考えて足を用意した。
相変わらず零は僕の運転には慎重だ。何かあったらいけないと言って、どうしてもという時しか運転させてくれない。それじゃあ、上達しないよ。
くやしいから聖を道連れにした。きっと今ごろ零は車の中でブツブツ言っているはずだ。
「陸?」
「なに?」
「もしも…もしも僕が零くんだったらどうする?」
「聖が、零?」
「うん。僕が零くんで零くんが僕なの。」
「聖が零の歳だったらってこと?」
「…う〜ん、そうかな?」
聖が零だったら。
「やっぱり零くんが好き?零くんと結婚する?」
「わから、ない。だって零は僕の前を歩いているって思っていたから、守ってあげるなんて、考えられない。」
「僕は陸のお荷物なんだね。ちゃんと待っているのになぁ…」
失敗だ。僕の今の回答は聖を傷付けただけだった。
「お荷物なんかじゃないよ。聖は僕の宝物だもん。」
「僕も陸のこと守ってあげられるように頑張るね。」
「うん。聖は大きくなったら、零よりカッコよくなっちゃうよね。そうしたら考えちゃおうかなぁ。」
「僕頑張って早く大きくなるね。」
「ありがとう。」
…しかし、僕は頼りないのかな?みんな守ってあげるって言うんだよね。なんか情けないな。
「今日はあやちゃん来るかなぁ?」
「連絡すればよかったのに。」
「だって『私は一ファンでいいの』って言うんだもん。特別扱いは駄目なんだって。」
「そっか。」
彼女は彼女なりに、一線を隔してくれているのか。
正午。
会場に到着。
既に入り口付近にファンの人たちが集まっていて、零の車は囲まれてしまっている。
僕の車は気付かない人が多いのですんなり入れた。
あらかじめナンバーを登録しておいたので、僕のだっていうことは警備員さんも分かっている。但し、中に入ってからちゃんと通行証は提示するんだけどね。
聖にチケットを渡しておかなきゃ。今回は聖のクラスメートに渡せなかったかんだよね。買収しているわけじゃないからさぁ…でもそう思われてしまう節があるらしいと林さんに言われてしまったから断念したんだよね。またいつかプライベートで…難しいかな?
「ママが来た」
聖はママの姿を見つけると飛んで行った。子供ながらに邪魔をしてはいけないと思うのだろうか?僕はずっとそばに置いておきたいのになぁ。
「聖、いい子にしているんだよ」
柔らかくて金色のふわふわした髪に指を差し入れわしゃわしゃと撫でた。
「うん」
聖はママの手を離さなかった…。
「陸ぅ」
「ん?」
なんとなく寂しい思いを振り切ってその場を立ち去ろうとした瞬間、聖に呼び止められる。
振り返ると
「頑張ってね」
そう言って僕の身体を抱きしめてくれた。
可愛い、聖。
「うん。今日は聖のために頑張るね。」
「駄目だよぉ。今日は零くんの誕生日だからさぁ、零くんのために頑張ってね。」
「そうだね。」
…また、忘れていた。どうするんだ、僕。
午後12時30分。
「遅い…」
なぜか不機嫌な零が、楽屋のパイプ椅子に腰掛けて僕を睨む。
「ごめんね。」
背後から零の身体を抱きしめる。
「お誕生日、おめでとう。」
そっと、頬に唇を寄せた。
「…遅い…」
零の声が照れを含んでいる。
「朝、一番に聞きたかったのに。」
…そっか。僕だってそうだ。零に、何かして欲しいなんて思っていない。ただ、僕の誕生日を覚えていてくれて、一番におめでとうって言ってもらえればそれだけで幸せなのに。
「今夜は、寝かさないからな。」
小さな声で、そう囁かれた。
…仕方ないよね。
午後12時40分
「おっす」
僕たちの次にやって来たのは隆弘くんだ。髪はボサボサ、着ている物はジャージの上下、手ぶらでボーっとしたまま楽屋に到着した。
「眠い…」
「又、ゲーム?」
「うん。FFがどうしても攻略できないんだよ。ツアー中もずっとやっていたのになぁ。駄目ジャン、俺…って感じ?」
そう言いながらも欠伸が止まらないといった感じだ。
「顔洗ってこよう…」
…寝起きかな?
「ごめんごめん、道が混んでいた。」
初ちゃんが駆け込んでくる。「道が混んでいた」は初ちゃんが遅刻するときの言い訳ベスト1。他には「目覚ましが壊れた」「朝から新聞の勧誘が来た」等歩けど大抵がこれだ。で、真実は彼女と仲良くしていただけなんだけどね。つまり「寝坊」?
「やっと揃ったのか?」
僕たちよりずっと先に会場入りしていたのは剛志くん。いつだって彼は時間にきっちりしている。
「じゃあ、さくさくとはじめようか。」
既に取材の人はステージでスタンバイしていて、僕たちが始めるのを待っている。
さてと…
「隆弘、それで取材受けるのか?」
初ちゃん、ご立腹です。
午後1時。
"隆弘くん"のチューニングが終わって、やっと"ドラム"のチューニングが始まった。
僕たちは既にスタンバイOK状態。僕はギタリスト 野原 陸の仮面を被る。
皆それぞれにステージ上では違う人間になっている。
でも一番違うのは僕らしい。…自覚無いけど。
ただ、恥ずかしいんだよね。何か聞かれるとしどろもどろになっちゃうし、答える前に必ず零のこと見ちゃう。だからひたすら何もしゃべらないように徹しているんだけど…駄目なのかなぁ…。
「…く?」
肩をポンッと叩かれ、僕は心臓が口からちょっと飛び出した。
「んが?」
…変な声が出てしまった。
「そんな、びっくりした?」
僕の肩を叩いたのは、事務所から依頼されてアクティブの写真を専属で撮っているカメラマンの伊達さん。口元が笑っている…。
「ごめんなさい、考え事、していた。」
「うん、そんな感じだったけど。撮っていい?」
「はい」
伊達さんは好き。皆の一番良い顔をいつも撮ってくれる。
今日はテレビと雑誌の取材が入っていて、さっきから色々なレンズが僕たちを見ている。
「ボーっとしていると撮られるよ。」
伊達さんはそっと僕に耳打ちしてくれた。
「うん。ありがとう。」
「音合わせ、はじめまーす」
スタッフの声が会場に響いた。
午後3時50分。
ステージ上では最終チェックをしている。今夜使う機材がちゃんと動作するか、床が濡れていないか、どこかセットが壊れていないか。
朝からスタッフ全員で頑張って作ってくれたステージ。全国を回ってきたから実はあちこち傷んでいるけど、それでも補修してなだめすかして(?)最終日まで持ちこたえた。
あとは僕たち次第。皆、頑張るからね。
「陸。」
いつから居たのか、パパが偉そうにソファにふんぞり返っている。
「何?」
立ち上がると、廊下に連れ出された。
「そろそろ、言ってもいいかな…と思うんだけどな。」
パパは僕の耳元で囁いた。
「何を?」
「おまえが、俺の息子だってこと。」
…今度はちょっとだけ、心臓が止まった。
「いい…の?」
そんな、嬉しいことしてくれるの?
「陸には、隠し事が多すぎるからさ、少し減らそうかと思うんだ。…拓も実路もいるんだ、そろそろいいだろう。」
だけど、ママのことは一生胸の中に仕舞っておいて欲しい…と念を押された。
そう、僕のママは僕が生まれたと同時に死んでしまったんだよね。
それでも、いい。僕がパパの子供として世間に認知してもらえるなんて、すっごく幸せ。
「父さんと母さんは説得した。」
「ありがとう」
僕はパパの首に腕を回して思いっきり抱きついた。
「大好きだよ、パパ。」
「うん」
…で?いつ発表してくれるんだろう?
午後4時23分。
「はい、差し入れです。」
そう言って手渡されたのはどう見ても手作りサンドイッチ。それがバスケットに一杯入っていた。
「彩未ちゃんから差し入れです。」
斉木くんがみんなに配っている。
そっか。あやちゃんが一緒に来なかったのはそういうことなんだ。
帰ったら電話しよう。
午後5時30分。
衣装替えも終わり、あとは開演を待つだけ。
なんかドキドキしてきた。いつものことなのにどうしたんだろう?
「ねぇ、なんか緊張しない?」
隣で何故か譜面と格闘している隆弘くんに声を掛ける。
「そっか?俺はそれどころじゃないけどさ。」
「何しているの?」
「新曲。」
「新曲?」
「突然決まったんだよ、さっき…って陸、流石余裕じゃん。」
「何のこと?」
「…聞いてないの?」
「…うん」
!!
僕は慌てて進行表を手に取る。ラストから3曲目に殴り書きで『9月21日発売の新曲発表』とある。
「これの、こと?」
「そうそう。なんだわかってるんじゃん。」
隆弘くんは再び譜面と格闘していた。
「知らないよ…いつ決まったんだよ。」
レコーディング、ずっと前に終わっていたから忘れちゃったよ。仕方ない、僕も格闘しなきゃ…。
午後6時28分。
「じゃ、行って来るね。」
朝、出勤するお父さんのように、普通に零がステージに向かった。
今回のステージはMCから始まる。
真っ白なシャツとパンツに、ジャケットはちょっと短めでコーディネイトした零の衣装。零は最近、髪を伸ばしている。それに合わせるには短めのジャケットかなって思ったんだよね。
でも零は変に着飾るよりそのままの方がいいんだよね。
ゆっりと、ステージに向かうその後姿を、僕はじっと見詰めていた。
『こんばんわ、加月 零です。』
僕らのツアーを一緒に回っていたファンの人たちは既に知っているから、今日は何を話すのかと、聞き耳を立てて待っている。
すると客席から
『お誕生日おめでとう』
の声が掛かった。
『ありがとう。僕ももう、23歳です。すっかり大人になっちゃいました。えっと、今日お誕生日の人、いますか?』
会場からはーいと言う声が複数聞こえた。
『本当に?じゃあ、一緒にお祝いだね。…って僕も誕生日だから、メンバーに祝ってもらおう。』
それを合図に一斉にステージへ雪崩れ込む。
それぞれ、所定の位置へ散って行ったのだけれども、ただ一人、零の前に立った人物がいた。
『零、おめでとう。』
がばっ
言うなりその人は零に抱きついた。
『…なんてね。』
スッと、身体を離すと、何事も無かったようにキーボードの前に立った。そう、剛志くんだった。
僕の心臓は今日3度目のショックを受けた。
分かっている、剛志くんはまだ、零が好きなんだ。冗談のように零を抱きしめたけど、本当は何時だって抱きしめていたいんだろう…。
『剛志、僕のこと好き?』
剛志くんはただ微笑んだだけだった。
『零、マイクこっちに貰って良いかな?』
初ちゃんが割って入る。
『ども、三澄 初です。メンバーからお祝いのメッセージを…って言っていたのに剛志に先制パンチを打たれました。てなわけで零、おめでとう。』
そう言って投げキッスをした。
『零の誕生日をね、一回祝ってやりたいなぁ…と学生時代に思ったんだよね。だけど夏休み中でしかも宿題に追われている時期じゃない?だからさ、思うだけで終わっちゃったんだよね。最近はツアーの移動日だったりで、全然駄目だったから、今回は最終日にしました。』
初ちゃんがマイクから一歩下がる。これが次の人へバトンタッチする合図。
『零も、俺のこと好きだろ?』
そう、剛志くんの番。零は笑って頷く。
『高三の時だっけ?一緒に免許取りに行ったの。』
『そうそう、高三だよ。』
剛志くんの問いに答えたのは初ちゃん。
『あの年、初は先に帰っちゃったんだけど、俺は零の家に行ったんだよね。で誕生日を祝ったんだよ。』
高三?2人が、恋人だったときだよね?
『でもそれ以来だから…五年ぶりだ。おめでとう。畑田 剛志でした。』
五年前、2人っきりの部屋で…誕生日を祝ったの?僕は、その時・・・
『あの時って、夾がいたよね?』
零が問う。
『そうだっけ?夾ちゃん、居たっけ?』
『うん。確か。前日から宿題がどうとかって騒いでいた記憶があるんだけど…違ったっけ?』
零の視線が会場を彷徨う。
『そうだよね?』
会場に夾ちゃんを見つけたらしい。夾ちゃんは首を傾げて、でも小さく頷いた。
『ほら。』
『あのさぁ、2人だけで会話してても俺らにはわかんないじゃん。駄目だね。あのね、今会場に零の弟で夾くんが居たんだよ。だから零は夾くんに確認したわけ。』
隆弘くんが会場に説明を始めた。
『でも夾くんは周囲にバレるのが嫌だったのか、無言で頷いた…ってことなんだよね。』
『そんな感じ。』
零が相槌をうつ。
『俺はそんとき、補講だったような気がする。』
『ううん、修学旅行だったよ。』
隆弘くんの独り言のような声に、思わず僕が反応した。そうだ、あの日、隆弘くんは修学旅行だったから練習が出来なかったんだ。僕は・・・
『だってあの日、僕は一日中映画館の梯子をしていたんだよ。』
そう、全部恋愛映画だった。
零が好き・・・という気持ちが、恋愛感情だって気付いた頃だ。どうして僕は女の子じゃなくて零ばっかり気になるんだろうって思っていて、それを確かめに行ったんだ。
『えらく地味な夏休みじゃん。』
『うん・・・』
なんか、滅入って来た。
『陸、ぼーっとしていると進行、遅れるぞ。』
舞台の袖から、林さんが必死で声を掛けてくれた。それで初めて我にに返ってやっとのことでステージが始まったのだった。
午後8時45分。
散り散りになって舞台の袖に引っ込んできて、皆クタクタの表情だった。
初ちゃんから打ち上げ会場の印刷物を貰って会場に向かおうとしたら・・・さえに出くわした。
午後9時30分。
会場に到着して、皆が何を企んでいるのか、大体分かってきた。だから素直に感謝していたんだよ、本当に。
かなり照れくさかったけど、パパに手を引かれて扉の向こうへ足を踏み入れた。
会場内は真っ暗でシンと静まり返って物音一つしない。さっきまでざわついていたのに…。
パパは黙ったまま、僕を誘導してくれた。
暫く暗闇と静寂の中をゆっくりと歩いていたら、なんだか昔を思い出してしまった。パパに我侭を言って遊園地に連れて行ってもらったこと、二人で河原を散歩したこと。そういえば自転車を買ってもらった時、パパにこうして手を引かれて自転車屋さんまで歩いたっけ。
突然、パパの腕が僕を抱きしめた。
「ここにお集まりの皆さんに、お伝えしたいことがあります。野原 陸は私の息子です。20年前、私が授かった大事な息子です。今までお伝えできなかったこと、お詫びします。」
パパと僕にピンスポットが当たる。
「この子に母親はいません。しかし決して甘やかしたり寂しい思いはさせたつもりはありません。自慢の、息子です。例えその息子が生涯の伴侶と決めたのが同性だったとしても、私は陸が、自慢の息子です。」
パパの腕が一度離れて、何時の間にか傍らにいた零を引き寄せた。
「二人がどのようにして惹かれあったのか、私には想像できませんし、理解も出来ません。でも、人が人を愛して、何か問題があるのでしょうか?人間は大きな障害に直面して、それをクリアした時に成長するものだと思います。二人にはこれからもっともっと、色々な障害が訪れるでしょう。これは第一歩なのです。」
会場内のライトが一斉に点いた。
そこには僕らの事務所関係者、レコード会社の関係者、広告会社の担当者、新聞社の人もいれば雑誌記者、テレビ関係者も居た。タレントさんやミュージシャンの知り合いも居れば、家の近所の人々の顔もあった。
「唯一、ここに招待できなかったのはアクティプのファンの皆さんです。」
隆弘くんの声が轟いた。
「皆さんに、お願いがあります。零と陸の家にはまだ小学生の聖くんがいます。色々な事情があって、聖くんは二人が育てています。彼の人生を狂わせるわけには行きません。二人がどうなろうと私たちは構いません、一緒に乗り越えていきます。でも聖くんに罪はありません。だから、今日のことは聖くんが成人式を迎えるまで、内緒にしていて欲しいのです。聖くんが成人したら、いくらでも報道して頂いて結構です。二人が文句言っても私が許可します。でもそれまでは断じて許しません。そのために、本日はご招待させていただきました。」
「今更、二人の記事を書いたってなぁ…」
そう言ったのは最大手新聞社の芸能記者。
「芸能界、ましてやミュージシャンにゲイはゴロゴロしているし、新鮮味、ないよな?」
隣近所にいた他社の記者に同意を求める。
「まぁ…なぁ…」
隆弘くんが彼に何かしたんだ、きっとそうだ。
「それにさ・・・陸が花嫁になるのは誰も不思議に思わないしさ。」
おい、ちょっと待ってくれっ。
「聖くんが成人するまでに、二人の関係が終焉を迎えるかもしれないしね。」
女性タレントが呟いた。
「そうしたら私、零さんの彼女に立候補するから。」
周囲に笑いが起こった。
「では、ご承諾をいただけたということで、二人の結婚披露を行います。」
言うが早いか、零と僕はひな壇の上に連行された。
なんか…ちっとも感動的なセレモニー…って感じじゃないぞ。ただのさらし者だぞ。
「折角皆さんにお越しいただいたのですから、口止め料代わりに素晴らしいものをご披露いたしましょう。」
そう言うと再び僕は連行され…こともあろうか…言いたくない…
隆弘くん、一生恨んでやる…
「それでは、陸のウエディングドレス姿をご披露いたします。今後絶対に公の場で披露されることはありません。あっ、カメラはご遠慮ください。駄目駄目〜あ〜…」
僕たちの願いは、届くのだろうか?静かに愛を育みたい、幸せに家族の生活を営みたい・・・そんな思いは満たされるのだろうか・・・
「陸、おめでとう。」
ただ一人、ファンの代表として招待された彩未ちゃんが、僕に祝福の言葉をくれた。
「すっごく綺麗だよ。」
・・・いやだぁ〜。
僕は丸々一時間、晒し者にされていた。
翌朝、ウエディングドレス姿の僕を抱き寄せるパパの写真が、新聞、雑誌、テレビで大々的に報道された。
『野原 陸は野原 裕二の隠し子だった』
映像と内容がバラバラなんですけど…。まぁ、いいか。
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