幸福論

「ごめん」
 斉木は剛志の腕を振り払い雨の中、車を飛び出した。
「なんでだよ…」
 こんなとき、なぜか理性が働く自分が恨めしかった。初に、会社に迷惑を掛けたくない…だけど斉木を失うのはもっと嫌だった。
「陸なら…追い掛ける」
 言い聞かせると車を走らせた。
 すぐに斉木の姿は確認できた。
 車を停める。
 窓を開ける。
「何がお前を立ち止まらせるんだ?」
 ドアを開ける。
 足を一歩踏み出す。
「嘘じゃない」
 斉木は後ずさる。
「いや…だ…」
「嫌われているなら身を引く、そうでないなら今ここで犯すからな」
 多分零ならこういうだろう。
「なら、嫌い」
 言いながら笑う。
「兎に角、車に戻ろう、な?」
 黙って頷く。
 腰に手を回して誘導した。
 車中に戻ると後部座席にライブで使用したタオルが放り込んであったので手渡した。
「剛志の匂いだ」
 斉木がくんくんとかいでいる。
「落ち着くんだ、剛志の匂い。だけどまだ生活を共にする覚悟が出来ない。」
 ぽつり、と話始める。
「まず家族に紹介する勇気がない。もしも破局したら今度はずっと一人でいなきゃいけないのかとか、悪いことばかり考えてしまう。わかってる、誰と付き合って結婚することになっても悩むんだ。だけど真面目に悩んでいるんだ。」
 頭からタオルをすっぽりと被ってぼそぼそと話す。
「ご両親に挨拶に行くときは二人で行こう?別れることは考えられないように幸せにするから。」
 斉木が不安に思うのは解る。
 けど放したくない。
「こんな風に外で会っていたら見付かる確率は高くなる。悪いけど雑誌に売られて掲載されたら俺にはどうしようもない。そうしたら認めることしかお前を守る術を知らない。」
「だから…やめようと…」
「嫌だ。一度手に入れたんだ、失う辛さは二度と味わいたくない。」
 車を発進させる。
「俺を守って欲しい」
 驚きの表情で見る。
「世間からのキツイ風当たりは流石に堪えるんだ」
そう言って照れ臭そうに笑った。



「わぁ、剛志くん、臭い〜」
 思わず僕は車の中の気安さから大声を出していた。
「そうですよね」
 斉木くんもそう思ったか。
「でも何で別れるとかって話しになったの?」
 運転手が零だから後部座席の僕達はしゃべり放題。
「まぁ、いつもの…ことです…」
 ちっ、肝心なところをはぐらかされた。
「陸って近所のおばさんみたい」
がーん
 運転席の零から言われると流石にショックだよ。
「斉木くんは誰かに話したいんだろ?のろけって言うんだ、それを。」
 ちょっと不機嫌な声が言う。
「違います、やっぱり一緒に住んだ方がいいか聞きたかったんです」
 あ、そうなんだ。
「本気で別れたら。」
 前を向いたままさらりと零が言ったから、斉木くんも僕も次に言おうとしていた言葉を思わず飲み込んだ。
「そんなに悩むなら一回離れてみたらいい。必要なら又くっつくんだからさ。…剛志は待つタイプだから大丈夫だよ。」
 はぁ、そういうことね。
「一緒に暮らすのは勇気が必要なんです」
 え?
「なんで?僕なんか次の日に押し掛けたのに。逢いたくないの?好きな人がどんな生活をしているか知りたくないの?食生活が偏っているかもしれないのに…」
「だって陸さんはそれまでも度々行き来していたんでしょう?僕はいきなりですから。」
「僕もそれまでは幼馴染みだっただけだよ、一度もマンションに行ったこともなかったしね。」
 まさかその頃剛志くんと付き合っていたし…なんていえない…。
「そんとき僕、剛志と同棲しようとしてた。」
 おいっ、零!
「…あ、それ、本当だったんですね…」
 斉木くんは幾分足元をふらつかせながら家路に着いた。



「斉木くん、大丈夫かな」
 寝室で着替えをしながらちょっと大きな独り言…と言う感じで呟いた。
「そうか…」
「なにが?」
 零は僕の顔をじっと見る。
「陸って友達があんまりいないよな?聞いた限りではクラスメートだった床屋の息子しか知らないな。」
 なんで突然?
「クラスメート以上の友達はいないよ。」
 だって友達より零と遊ぶ方が楽しかったから。
「だけど友達、沢山出来たよ、零と仕事が別々のときは斉木くんも一緒だけどご飯食べに行く人は何人かいるしね。」
「ちょっと待って」
 は!又零の嫉妬が…
「必ず斉木が一緒?」
「うん」
 あぁ、怒られる。
「剛志の最大の敵はやっぱり陸か…」
「え?」
「夜電話しても出ない、出たら酔ってる、これは恋人以外の人間と遊んでいますと言わんばかりの行動だと思わないか?やっぱりあいつは女の子の方がいいんだ、俺を振ると仕事がやりずらいから無理してセックスにつきあってるんだ、だから一緒に暮らしてくれないんだ…と嘆いていた。」
 ゲゲッ
「そんなつもりじゃないんだけどな。大抵二人でお腹空いたからご飯にしようとか、前から約束してたからとかだよ。それに最近は都竹くんも一緒だしね。」
「僕は最近、真っ直ぐ帰ってきてる。」
 いうなり両肩に手を置くと顔だけ寄せてきてキスをした。
「言ってることが滅茶苦茶だな。」
 僕を抱き締めると肩に顔を埋めた。
「陸に友達が出来たのはいいことだと思うけど、出来るだけ二人の時間も欲しい。その唇から他の人の名前が出るのが悔しい。」
 うん、解るよ。
「零」
 髪に指を差し込み何度もすくように上下に動かす。
「僕は何も変わってない、ずっと零が好き。」
 うん、と力のない返事。
「世の中の主婦してる女性の気持ちが少しだけ解る気がする。旦那は職場の仲間と飲みに行く、自分は家で子供と帰りを待つ、旦那だけ楽しいことがあっていいなって思って、それがそのうち浮気しているんじゃないかに変わって。最終的には物凄く嫉妬するか自分も浮気するか…存在を無視するかになる。僕は確実に嫉妬の鬼になる。」
 ゾクッ
 背中を悪寒が走った。
「ってことを言いたかったんじゃないんだ。家に連絡を入れるのは勿論だけど剛志にも電話してやって欲しい。斉木はうちのマネージャーで陸の付き人だけど剛志の恋人だからさ、気遣ってやって欲しいんだ。」
 頭を殴られたみたいに衝撃を受けた。
「そっか…まだ一緒に暮らしていないからそういうことは必要ないと思っていたんだ。これからは気を付けるよ。」
「斉木は必ずうちには連絡してくれるのに剛志には何もしないんだな。」
 え?
「斉木くん、うちに連絡入れてくれてたんだ。」
 ごめんね、気が利かなくて。
 社会で生きていくのは人と関わり合って、支え合って生活すること。
 相手への思い遣りは大切な事。僕ってダメだな…ん?
「なんだ、零は知っていたんだ」
 悪戯がばれた子供みたいな顔で「まあな」と笑った。
「陸の友達って僕はみんな知ってるから。」
「だってみんな紹介してるもん」
 誰かが零を狙ってたら困るからね、まず都竹くんなんだけど…。
 だけど…剛志くんに謝らなくっちゃ。
 僕は家の電話の前に椅子を移動すると、どっかと座り込んで剛志くんの携帯電話をダイヤルした。
『もしもし?』
 コール7回で出た。
「剛志くん?陸だけど…」
―じゃあ―
 背後に男性の声。
『ちょっと待て!悪い掛け直す』
 言うが早いか何も言わないうちに切られた。
「なんだろ?」
「斉木だろ?」
 電話の音を何も聞いていない零の答え。
 そうだった、斉木くんなんだかしょんぼり、帰ったんだった。



「なんだよ!なんでお前は俺の顔を見ると別れ話ばかりなんだ?」
 斉木は俯いていることしかできない。
「何で付き合うなんて言った?俺は本当に最後の恋だと覚悟して打ち明けたのに。又、陸と遊んでいたのか?そんなに陸がいいのか?」
 剛志の右手はさっきから堅く握り締められたままだ、爪が掌に食い込んでいる…傷付けないと良いのだけれど…と思いながら斉木はぼんやりと見つめていた。
「まさかず…」
 右手がぴくりと動いた、途端に斉木は身を避けた。
「そんなに、嫌いか?」
 右手の拳が解かれた。傷にはなっていない。
「嫌いな男ならセックスなんてしない…嫌いになれたらどんなに楽だろう…ただ片想いしていただけなら友人にでもなれるのにな。僕は剛志と零さんみたいに割り切れない。…愛しているんだ…だから悩むんだ。」
「何を悩んだらこんなにうじうじしているんだ?」
「二人の将来を考えたら何も生産性がない。ならこれ以上気持ちが傾く前に終らせたいんだ。」
「生産性って、何を言って…子供?祐一は聖くんが可愛いみたいだもんな…そんなに子供が欲しいなら…」
「違う、僕じゃない、剛志の…」
 剛志は斉木の言葉を遮るように繋いだ。
「なあ祐一、確かに生命体としてこの世に生を受けたからには種の保存は必要だけどさ、男女の夫婦に必ず子供が授かっているとは限らないんだよな。俺は祐一とゆっくりと二人で歳を重ねたい。」
 斉木は微動だにしなかった。
「一晩…考えていいかな?」
 端正な顔が幸せそうに頷いた。



「おはよう!」
 聖が勢い良く扉を開けた。そうか、今日は世間で言う日曜日、聖も学校が休みなんだ…。
「まーくん、何時きたの?」
「夕べ…二時位だったかな?もう少し寝かしてやって。」
「もうシャワー浴びてるよ。」
 ゲゲッ。
「零、斉木くんもう起きてるって。仕事行かなきゃ。」
 うう…ん…と一回寝返りを打ったが、またスースーと気持ち良さそうな寝息が聞こえる。
「零っ」
「キスして…」
「ええっ零くんってそんなに甘えん坊なの?」
 ガバッ
「違うって。」
 聖に言われて慌てて起き上がる。
「おはようございます。僕、畑田さんの家に寄って行きます。」
 ひょっこりと斉木くんが顔を出したと思ったらさっさと玄関へ向かって出て行った。
「剛志くんと喧嘩したの?」
 聖が複雑な表情で僕を見上げている。
「ううん、多分違うと思うよ。」
 斉木くんは夕べ遅く、ただ一言「泊めて欲しい」とだけ言って客間のベッドに転がり込んだ。僕たちは何も聞いていない。
 でもきっと、何かがあったんだ。
 剛志くんの家に居られなかったんだ。自分のマンションにも帰れなかったんだ。
「腹括ったみたいだな。」
 零はいつも人の心を見抜く。そしてそれはいつも当たっている。
「腹を括ったって…別れるのかな?」
「ばーか、二人で生きていくっていう、自信が出たんだと思う。」
 自信?
「どうして好きな人と一緒に居るために自信が必要なんだろう?」
 零は僕の顔をまじまじと見詰めた。
「陸は、本能で生きているからね。斉木くんは僕と一緒でデリケートなんだ。些細なことで悩むし傷つく。」
 ん〜…僕は悩まないみたいな言い草だな。でも今は僕のことじゃないからぐっと我慢しよう。
「近いうちに一緒に出勤してくるようになるさ。」
 僕はふと、雛人形を思い出した。豪華七段飾り…ではなくて内裏様とお雛様のシンプルで小さな折り紙で折られているやつ。内裏様が斉木くんでお雛様が剛志くん。
 剛志くんは強いようだけど実はとってもナイーブだから、斉木くんが横に着いててしっかり支えていてあげるんだろうな、きっと。
「聖、冷蔵庫のレタス、洗っておいてくれる?サンドイッチ作るから。」
 さて、結果を聞きだすためにも、早く仕事に行かないとね。


「え?」
「何もないですよ。今まで通り僕はACTIVEのマネージャーで陸さんの付き人です。僕は僕の家から仕事に出ます。」
 零、外れたじゃないか…と心の中で呟きながらちらりと零を見た。
「剛志も同じこと言っていた。助言どおり別れたのか?」
「いいえ。お陰さまで順調です。」
 にっこり、笑う。
 あ…
「斉木くん、今まで通り、なんだよね?」
「はい。」
 にっこり。
 分かった、そういうことなんだね。
「斉木、一応剛志も芸能人って奴で、映画に出たりしているから、気を付けろよ。」
「…はい。でも決めたんです。ばれた日には堂々と記者会見でもなんでもします。三澄さんには迷惑をお掛けするかもしれませんけど、僕たちのことは僕たちにしか分からないと信じていますから。」
 にっこり。
 やっぱり。
「一緒にはまだ暮らさないんだね?」
「はい。」
 でもやっぱり、斉木くんはにっこり笑う。
 人間は幸せになりたいと、願う。それは大好きな人と一緒がいいと、思う。二人一緒ならどんな困難でもクリアできると、信じている。
 だから、心からの笑顔があったかくなるんだよね。