008.仕切り直し
「免許、持ってないんだ?」
 少し俯いて頷く。
「うん」
 だって、高校卒業して直ぐに先生の所へ弟子入りしたから、教習所に通う暇なんてなかったんだよ…とは、言わない。
「俺、運動神経なかったの、忘れた?」
「運動神経ないってほどじゃないだろ?だた足が遅かっただけで他は平均だったじゃん。」
 意外にも、侑は俺のことを少しは覚えていてくれた。
「…反射神経もないんだ。」
 これならどうだ。
「…それは致命傷だな。」
 侑が笑った。
 心の傷なんて癒えるはずがない。だって傷ついていないから。
 俺には、君をもう一度手に入れる方法があるんだ。



「皮の手袋があるんだ、職人用の。」
 彫刻刀で手を傷つけないようにする専用の手袋。
 別に通販でも市内でも買えるけど、侑の運転で遠出したかったんだ。
「大きな専門店が横浜にあるんだよね。」
「へー」
「ところで、どうして侑は鎌倉に帰ってきたの?」
「就職先が、鎌倉だったから。他に就職出来ていたら帰ってこなかった。」
「…そうしたら、俺と再会しなかったら、別の人と付き合っていたよね?」
 また、俯く。
「それがさ…大学時代に何人かの女の子と付き合ってみたんだけど、深い付き合いになる前にどうもしっくりこなくて別れた。だから、ちゃんと付き合ったのは今でも睦城だけなんだよな。」
 え?
 付き合った?
 女の子と?
 ちょっと意外だった。
 今日は意外の連続だ。
「それと、自分でも驚いたのは、俺って性に関して物凄く淡白なんだ。自分ですることもないし、誰かとしたいとも思わないし、アダルトビデオとか見ても興奮しないんだ。ただ単純に朝生理現象として処理されている。」
「でも、」
 続き、言ってもいいかな?
「そうなんだよ、睦城と出来たじゃん?それが、謎なんだ。」
 背筋を、冷たいものが走る。
「睦城が、良いって思ってくれるなら…その、一回…」
「やだ。」
「だよな。」
 侑は笑う。
 でも、笑い事じゃない。
 だって、侑は俺としか寝たことがないと、抜け抜けと抜かしやがったんだからな。…嬉しいじゃないか。
「ところで。」
 ん?
「今は研修中なんだけど、あと半年弱で本社勤務になるんだ。そうしたら店には出ない。」
 そっか…そうだよな。
「睦城、実家から通ってないよな?」
 え?
「なんで分かった?」
「駅で見かけないじゃないか。ちっとも家に呼んでくれないし。」
 意外と鋭い。
「うん、先月から中学の近くにアパート借りて暮らしてる。」
「そこ、行ってもいいか?」
 な?
「なんで?」
「なんで…って…その…なぁ…うん。」
 さっき自分で淡白だと言ったじゃないか。
「金曜日、泊めてくれないか?今度の土曜日は朝早いんだよ。」
 うっ…。
「いいけど…」
 やばっ、いいって言っちゃった。
「お礼に夕飯、俺が作るよ。」
 え?侑の手料理?なんだかドキドキする。って言うか、俺の方が翻弄されていないか?
 ダメだ、これじゃ。
 でも金曜日は…泊めてあげたい。
「俺、今度の土曜日は仕事なんだ。だから早く寝たいんだけど遅くなることはないか?」
「それは平気。じゃあユニオンで買い物してから行くよ。」
 ユニオンは段蔓の先にあるスーパー。駅前の東急ではなくユニオンを選ぶところがなんだか…裏駅の紀伊国屋でもいいんだが。
 あ、だめだ、頭の中グルグルしている。
「何作ってくれるんだ?」
「鍋。簡単だろ?」
「だったらおでんがいいなぁ。」
「了解。じゃあ、大根とじゃがいもと練り物をいくつか見繕って…・はんぺんに…ってあんまり入れたら食いきれないか。」
「いいよ、次の日も食べるから。」
「よし、じゃあ豪勢におでんパーティーだ。」
 豪勢に…か。
「日本酒はいくつかあるから任せて。」
「おうっ。」
 金曜日…楽しみだなぁ。
 でも、ちっとも仕切り直せないじゃないか。