051.それは無理
「いらっしゃいませ。あ、華誉さん、こんにちは。」
 喫茶店が開店している時間に、僕が店に近寄ることを、侑は妙に嫌がる。
 何か後ろ暗いことがあるのかと気になり、黙って降りて行ってみた。
 すると、常連らしい品の良さそうなご高齢の婦人…簡単に言うとおばあちゃん…が、今まさに侑に手を引かれて入り口を入ってきた。
「侑ちゃんの煎れてくれるお茶は美味しいからね。」
 ニコニコと笑顔を向けている。
 侑は女性に人気がある。でも本人は気付いていない。
 テーブルでカップに口を付けている女性も、その向かいでハンカチを手にしている女性も、侑の一挙手一投足を見詰めている。
「いつもの席が空いてて良かったね。」
 そう言って侑は厨房に入っていった。
 今日の紅茶は『セイロン』。侑のこだわりで毎日一種類しか出さない。
 でも、サンドイッチとセットにするときはダージリン、おにぎりセットは加賀棒茶と決まっている。
 華誉さんと呼ばれたおばあちゃんは、紅茶だけをいつも頼むようだ。
「睦城?出掛けるのか?」
 階段に留まっている僕を見付けた侑は、優しく微笑む。
「いや、ちょっと息抜き。」
「だったらもう少し待ってて。休憩に入ったら上行くから。」
 最近、高校生のバイトが入った。
 将来、レコードを聴かせる喫茶店を海の見える場所で開くのが夢という女の子、見浦槙(みうらまき)ちゃんだ。
 紅茶も上手に煎れる。
 槙ちゃんが来たら、30分だけ侑が休憩に入る。
「うん。」
 ここで、こうして侑が働いている姿を見るのが好きだ。
 でも、侑は嫌がる。
 仕方がないので二階に戻る。
 一階にあった作業場を二階に移し、空いたスペースにテーブルを増やした。厨房の横に、従業員の休憩室も増やした。
 度々リフォームするのは、中学の同級生に大工がいるからだ。
 清水玲(しみずあきら)、女性だ。
 彼女からリフォームを持ちかけてくる。
 だからリフォーム代は余りかかっていない。
「侑くーん。」
 また新しいお客さんだ。
「おー、久詩(くらら)。今日は一人か?」
「うん」
「もう直ぐ槙ちゃん来るから待ってて。」
「はーい!」
 侑はまだ身体が空かないようだ。
 諦めて二階に戻る。
 彼女たちは皆、侑が目当てでやって来る。
 侑は僕が一階にいると、女性に囲まれてしまうから二階に居ろと言うけれど、侑は小学生の時から女性に人気だ。常に囲まれていた。
 決定的なのは中学の調理実習だ。
 男女混合で行うのに、侑に食べて欲しいと女子が集まる。…ま、僕の所にも数名居たのは否定しないけど。
 僕が横にいても、女子はずかずかとやって来る。
 ダメだ、心が乱れて集中できない。
 侑に、抱き締めて欲しい。
 睦城だけだよと言って欲しい。
 君の言葉一つで、僕はどうとでもなる。
「すすむ…」
 僕はなんて欲張りなんだろう。
 君はいつだって僕を優先してくれて、甘やかしてくれて、愛してくれる。
 僕は君の何百分の一しか、返すことが出来ていない。
 今考えると、再会したときにあんなイジワルをしなければ良かった。
 泣いて喚いて戻ってきてと懇願すれば良かった。
「侑、ごめん」
 大丈夫、侑は僕を見てくれているから。
 大丈夫。
 階段のきしむ音がした。
 ドキドキする。
 すると、階下から「てんちょー」と、槙ちゃんの声がする。
 またか。
「ごめん、10分…いや、5分待って。充電してくる。」
 スマホの充電は下でも出来るのにと、不思議に思った。
 ドアが開く。後ろ手で鍵を掛ける。
「どうしたの?」
「電池切れ」
 言って、抱き締められた。
「睦城の電池切れ」
 バレてた。
「キス、して。」
 ん
 触れるだけの、キス。
「これ以上したら我慢できなくなるから、ごめん。」
「うん、僕も。」
「睦城が降りてきたら、客がざわめいてた。」
 そうか?
「アイドル並みのルックスだからな。」
 そうか???
「集中力が切れたんなら、パン屋に行ってきたら?もうすぐ閉店だから相手してくれる。」
「そっか、その手があったか。」
「ごめん、やっは無理」
 侑。僕は店に君を置いておくことが無理なんだけど、仕方ないよね。
 甲斐性がなくてごめん。