053.切り替え
 僕は時々、引退した師匠の家に相談へ行く。
 本来、鎌倉彫とは芸術作品だ。その芸術性を極めていくことが必要なのだが、それでは生きて行くことが出来ない。
 芸術家であることと雑貨として生産することを、きちんと理解して、頭と心で切り替えていく作業が必要だ。
 今のところ、僕は作家というより一制作者でしかない。
 作品展に出品出来るほど優秀な作家ではない。
 生活の中に、商品として潤いとして置いてもらえたなら幸せだ。

「おかえり」
「ただいま」
 空元気を出しても、侑にはバレてしまう。
 なのに今日は何も言わない。
「少し、向こうの部屋に居る」
「分かった。」
 まだ、夕飯には早い時間。
「あ、睦城。少し出掛けてくる。」
「あぁ。」
 侑は優しい。
 気を遣って僕を一人にしてくれるんだ、きっと。
 僕の制作用の部屋で、丸い盆に向き合う。
 実家の山に咲く、藤の花。
 何度も心を奪われたこの花を表現したい。
 しかし、師匠は今の僕では無理だと言う。
 きちんと所帯を持って、安定した生活をしろと言う。
 安定した生活は送っている。
 結婚しましたと、言えないからいけないのか?
 一度、師匠をここに招待した方がいいのか?
 恥ずかしくはないが、否定はされたくないのだ。
 ただでさえ、母に否定され続けているから。
 母は、僕が女の子を連れてくると信じて疑わなかった。
 ずっと、侑の話しかしてこなかったのに、どうして女の子と未来を夢見るなんて思ったのだろう?
 僕を否定しないでいてくれる、侑を幸せにしたい。
 それだけのこと。
 しかし、それは逆に僕が母を否定しているのだ。互いの気持ちがすれ違っていく。
 でも、今は母には父がいる。
 ずっと、愛人の子供で、私生児だと、思わされる節が多かった。
 それが、突然単身赴任していたのだと言われても、信じる方が無理だ。
 戸籍を見れば分かる。
 それでも信じた振りをしてやるのが、子供としての精一杯の愛情だ。
 母親にも、それに応えて欲しいと思うのは身勝手だろうか?
 何と言われても、僕は侑を手放したくない。
 僕がサラリーマンにならず、手に職を持ったのはそんなこともあるからだ。
 ただ、『鎌倉』に拘りすぎてしまった。
 この場所から離れられない。
「ただいま」
 侑が帰ってきた。
 僕はその事実だけで浮き足立つ。
 本当に本当に、侑が、侑だけが居てくれれば、何も要らない。
「たこ焼き買ってきた。食べよう?」
 僕は思わず吹き出した。
「たこ焼きって言ったら鎌倉駅前まで行ったの?」
「いや、今は長谷観音の前にもあるよ」
「…バレてた?」
「まあ、な。」
 それでも黙って見守っていてくれる。
「あのさ、師匠に、会ってくれないか?」
「いいよ。」
 何でとかは全く聞かない。侑は僕なんかより全然大人だ。

「会社勤めではほぼ着なかったスーツも偶には役に立つな。」
 店の硝子に映る自分の姿を見て、満更でもなさそうだ。
「侑のスーツ姿は見惚れる。」
「睦城のスーツ姿は色気がある。」
 互いに褒め合いながら帰路に着く。
「師匠さん、気付いてたんだな。もっと早くに行けば良かった。」
「うん。」
 今日師匠に会いに行った。侑を紹介したら、早い段階で僕がゲイと気付いていたと言われた。
「別に身を固める相手が女じゃ無くてもいい、生活に潤いがあれば問題ない」と、優しい目差しで祝福してくれた。
 帰り際、「彼は一度ウチに来たことがある」と、教えてくれた。
「侑」
 腕に腕を絡める。
「裏の銀座アスターで飯食っていこう?」
「あ、なら津久井でお好み焼きがいい」
「いいね、行こう」
 「入れるかな?」と言いながら腕は離さずに歩いた。