059.悪魔のように微笑んで
 壁の時計と自分の腕時計を何度も見た。時間は正確だ。
「夏神(かがみ)さん、そろそろ帰る時間だよ?」
 常連客の一人、夏神さんという女性が今日に限って閉店時間を過ぎても帰らない。
「この後用事があるんだよね。」
「店長さん、好きなんです。やっぱり諦められない。」
 突然椅子から起ち上がると、抱きついてきた。
「夏神さん、ごめんなさい。私には結婚と同等の誓いを立てた人がいます。だから、貴女の気持ちは受け取れないんです。」
 いつも通りの回答でやり過ごせると思っていた。
「一回だけ、一回だけ抱いてください。」
「無理です。私は貴女では勃たないんです。」
「それは女性として魅力がないということですか?」
「違います、貴女は可愛らしい顔立ちだし、性格も素直で優しい。でも、私には既に相手が居るから、その人と抱き合いたい。一分でも長くその人と居たい。」
 腰に回された腕を解いた。
「ありがとう、ごめんなさい。」
「侑?」
 ヤバい、睦城が降りてきた。
「あ、まだお客様がいらしたんですね、失礼しました。」
 睦城が、微笑む。
 最高に綺麗で、冷酷な笑み。
 俺の横に立ち、夏神さんの耳元で囁く。
「そんなに痩せてたら、侑が気持ち良くなれない。」
 夏神さんが後退る。
「可愛い声で鳴ける?」
「睦城」
「それより、僕が許さないけどね。学校で習わなかった?他人の物に手を出したらイケないって。」
 夏神さんは飛ぶように帰って行った。
「侑、ごめん。」
 睦城は困ったように俯いて見せた、見せているだけだ、目が笑っているから。
「ブラックな睦城って、いいな」と囁き、抱き締めた。
「偶には俺にもそんな顔を見せてよ、そそられる。」
「その気になる?」
「それはいつものこと。」
 態と音を立ててキスをする。
「カッコいい睦城も好きだ」
 今度は照れている。
「店、閉めたら行くから」
「うん」

「うまく出来たじゃんか」
 睦城が、晩御飯を用意してくれた。
 ま、ざるうどんだけど。
 つけ汁はめんつゆだけど。
 おかずとして並んでいるきんぴらゴボウは夕べの残りだし。
「玉子焼き」
 そう、睦城は最近、玉子焼きを覚えた。
 徐々に上達していて楽しいらしい。
「侑が食べてくれるのが一番嬉しい」
 俺の旦那さんは、可愛い。睦城の旦那さんだって負けてないけどな。
「今度は肉じゃがに、」
「ニラレバがいいかな?」
「あ、そうする!」
 そっちの方が失敗は少ないだろう。
「さっきの子、ショックだったかなぁ」
 箸を咥えたまま、少し後悔しているらしい。
「いいよ、どうせ断るし。」
「侑、昔から女の子にモテてたよね」
「そうか?そんなん気にしてなかった。睦城が好きだったから」
「侑は照れもせずよく言えるよね、そんな恥ずかしいこと…僕も好きだったけど。」
 食事中に好きとか言うと、したくなる。
 明日は睦城が師匠さんの所へ行くから、あまり色っぽい顔をさせたくないんだよな。
「いいなぁ、侑。昔から、僕しか見てないよね」
 睦城に悪気はない、そうだ。

「おはよ」
 目覚めて直ぐに確認した。
 やっぱり可愛いけど、目元が赤い。
「師匠さん、睦城に欲情しないかな?」
「まさか」
 そう言って笑う顔が艶っぽい。
 俺の目にだけそう映っているのならいいけどさ。
 睦城が出掛けて、店を開けた。
「店長さん、昨日はすみませんでした」
 夏神さんが、いた。
「で、昨日の方、いらっしゃいますか?」
 おいっ!
 俺は思わず、追い出した。
 睦城の気持ちがわからなくもない。