093.とある一日
 睦城は、波の音で目が覚めた。
 いつもより波の音が大きく聞こえたからだ。
 雨が降るのかな?
 そんなことを思った。
 侑は、睦城が目覚めたことに気付いた。
 しかし、起きるでもなく寝るのでもなく、音を聞いているような気配がしたので黙って目を閉じていた…そのまま二度寝してしまった。

「おはよう」
 二度目に目覚めたときには、睦城が着替えをしていた。と言うことは、睦城もあのまま眠ってしまったのだろうか?
「雨なんだ」
「そっか」
 あの時、雨の匂いがしたからな。
 侑は思った。
「朝飯の支度、するから待ってて」
「それがさ…」
 居間のテーブルには、目玉焼きがあった。
「作ったんだ?」
「うん」
「ありがとう。寝坊したもんな、俺」
「ううん。僕が早すぎただけ。波がね、寝かせてくれなかった。」
 そうだ、睦城は波の音が少し苦手だと言っていた。
 タイマーセットしてある炊飯器は、既に白米のいい匂いをさせていた。
「ちょっと待ってて」
 侑は慌てて顔を洗って台所へ行く。
 昆布を浸していた水を、鍋に移すと火にかける。
 昨夜の残りのほうれん草のおひたしを鍋にぶっ込み味噌を解く。
 保存容器から海苔を取り出し朝飯の完成。
「いただきます」
 睦城は両手で箸を持ち、手を合わせて言葉を発した。
「いただきます」
 侑も同じ様に発する。
 ふふっと、嬉しそうに微笑む。
 睦城が笑うと、侑は一日幸せだ。
 だから、きっと睦城もそうなんだろうと、侑も笑う。
「どうしたの?」
 睦城は業と訝しんだ。
「しあわせだなぁって。」
「うん」
 その言葉を、睦城は聞きたかったのだろう。侑は失敗したと心の中で呟いていた。

 睦城は一心不乱に彫刻刀を動かしている。
 今は栃木県からの注文品を作成中だ。
 睦城が彫り、仕上げは外注に出す。
 娘さんの嫁入りにメイクボックスを渡したいのだそうだ。
 今は鳩サブレーの缶に仕舞っているらしく、それならば同じ鎌倉の名産品の鎌倉彫のメイクボックスを渡したいと思われたそうだ。
 鏡台だと、マンション住まいには大きすぎて邪魔になる。だからメイクボックス。
 侑はふと、思い出す。睦城がメイクボックスを作りたいと言っていたことを。
 きちんと流行を知っていたことに驚いた。

 侑は一週間分の自分達の食事の買い物から戻った。
「おかえり」
「ただいま」
 明日は週末。
 喫茶店を開く日だ。
 侑は夕飯の支度まで、店の中を掃除するのだろう。
 海を、街を散策した観光客が、少し足を休めるために立ち寄る店にしたい。
 侑の望みが叶いつつある。
 侑も睦城も、若い女性が騒ぎ立てるような年齢ではなくなった。
 二人の、ゆっくりした時間が今日も流れていた。