謙一郎&温シリーズ
=花『忘れな草』
「あっちゃん、驚いたり、怒ったりしないで聞いて欲しい。・・・なんか近所の下着屋がけんちゃんに懸想しているらしいんだよ。」
 けそう?
「しょっちゅうデートに誘い出そうとしているらしいぞ。」
 一郎さんに怒るなと言われたのに、僕はかなり頭に血が昇り、その足で相手を見に行った。
 下着屋…確かに売っているが正確には化粧品店、派遣の美容部員らしい。
 当然だ、謙一郎は僕が惚れた男だけあって容姿はずば抜けていい。そんな謙一郎に一目会ったら恋に落ちるだろう…なんて感心している場合ではない。
 兎に角どんな具合なのかが気になる、気になるなら本人に聞けば良いのに…分かっているのに本人を目の前にすると聞けなくなってしまう。
 バイトに店番を頼んでこそこそと出掛けていく、まるで小学生みたいだ。
 謙一郎の店の前で不自然に変装して様子を伺う。
 朝は近所の"あったか弁当屋"のおばさんが足りなくなった食材を仕入れに来たり、夜の店を経営している人が出入りしているが、時候の挨拶程度だ。昼は一時暇になり、午後から少し年配の人達が訪れ、若い人は夕方に集中する。
 謙一郎に言い寄る人は結局現れなかった。
 その晩、夕食の食卓で
「私の勝ちだ。」
と、得意満面で一郎さんが笑う。
「絶対にあっちゃんは様子を見に行くぞって言ったらけんちゃんは行かないって言うから、賭けたんだ。」
 …なんだ、試されたんだ…ってことは女はいないのか?
「いやぁ、こういっちゃなんだが、けんちゃんは特別に仕事が出来るってわけでもないし、容姿だって十人並みのちょっと上くらいだし、あっちゃんに比べたらあまりにも普通だからな。」
 …一郎さんの目は腐っているな…
「二人はどうして付き合い始めたんだ?」
「一目惚れです。」
「かっこよかったから…」
 同時に答えたら一郎さんはケラケラ笑い出した。
「あっちゃんのなれそめは聞いてなかったな」
 話していないからそういうことになる。
「謙一郎は職場に配属されてからだと思っているけど実は前があるんです。」


***************************************************************************


「あの…」
 僕は背後から突然声がしてびっくりした。声がしたことに驚いたのではなく、声音に驚いたのだ。
 先日、三年付き合った男に振られたばかりだった。その声が元恋人に似ていた。しかし似ていたのは最初の「あの」だけで後は似ていなかった。
 どんな顔しているのか確認だけしようとして、目が合った気がした。声の主は僕に声を掛けたのではなかった。
 すっ、と通りすぎて背後の老人に手を差しのべていた、それが謙一郎だった。あの笑顔が忘れられなかった。ただの通りすがりでしかないと、諦めていたんだ。
 でも謙一郎は目の前に現れた。
 人事の同期が「一番使えそうにないのがお前のとこに配属になったぞ。」と、こっそり教えてくれた。
 写真を見たらあの時のまま。僕は謙一郎の前では努めてクールを装い、出来るだけ彼に近づかない様にしていた。理性を保つのは辛かった。


*****************************************************************************


「それは無理、だって僕は入社式から一目惚れでなんとかして接点を持とうとしていたから。」
「いいんだ、いつか言うつもりではいたんだ」
 いや、実際には言っていないが・・・。
「温さん、確か僕が初恋だって・・・言ったよね?」
 謙一郎は細かいことを覚えている・・・。
「うん。謙一郎が初恋だよ。それまでは皆声を掛けられて付き合ってもいいかなって思った奴とそうなっていた。欲しいと思ったのは謙一郎だけだからね。」
 うー…と唸りながら、謙一郎は渋々納得していた。
「じゃあ、今はけんちゃん一筋なんだ、偉いな」
 一郎さんが感心したように言うけど、なんで偉いのだろう?
「私は恋をしながらも結婚した。信之助さんだけを想って生きていけなかった。彼との約束を果たしたなんて言ったが、本当は寂しかったんだ。彼のいない生活に慣れて行くのが嫌で、親の言うままに結婚した。信之助さんの想い出を抱いて、信之助さんの夢を見て生きてきた。だから・・・あっちゃんが連れて来てくれた人は別人なんだ。」
「別人?」
 一郎さんは黙って頷いた。
「確かに姿形、記憶から全てが信之助さんだけど何かが違うんだ。」
「気のせいじゃ…」
 言い掛けてやめた。
 一郎さんがそう思うには何かわけがあるのでは。
「目を閉じてお互いを探してご覧、解るから。でも、彼は信之助さんなんだよ。」
解るような解らないようなことを言って一郎さんは微笑んだ。


「温さんの叔父さんが信之助さんだったのはラッキーだったのかな?確かに探していた人に最期に会えたのは幸せだと思うけど、もしかしたら思い出のままにしておいたほうか良かったのかな?」
「僕だって悩んださ。だけど最終的に決意するのは二人だろう?」
 しかしどうして『別人』なんだろう?興信所を使って更に親戚に聞き回り、信之助さんの養子先にも確認したのに。
「なんとなくじいちゃんが言いたかったこと、解るな。」
 謙一郎は昔の信之助さんだったらただ黙って一郎さんを見ているだけなんてしないだろうと言う。
 しかし、僕だったら会社経営は順風満帆、家族に恵まれているように見える一郎さんには近寄れないと思った。
「僕だったら…今温さんと何かの力で別れ別れになっても必ず会いに行くからさ。」
 謙一郎は微笑んだ。


「いい加減にしてください、私は全て放棄したのですから了(さとる)に聞いてください。」
 僕はかなりイライラしながら電話を切った。実家のことは全て一つ年下の弟に任せた。そのかわり僕は一郎さんの財産を管理運用していくことを選んだ。
 なのに今ごろ何を…。
 心配そうに二人が僕の顔を覗き込む。
「一郎さん、誓っていいます、僕は決してあなたの財産を狙ったわけではありません。本当に大叔父があなたの信之助さんだと確信したから会って頂いたのです。」
 それに一郎さんには信之助さんの養子の孫、恭二がいる、必ず僕に渡るとはわからない。
「わかっているよ。あっちゃんは一生懸命やってくれているじゃないか。
 私は二人にお礼がしたいだけなんだ。
 何かが違うと思ったのは違うんだ…以前のような輝きがなかった…歳をとったんだな」
「じいちゃん、それは多分信之助さんにじいちゃんの理想が重なってしまっていたんじゃないかな?じいちゃん言ってたじゃないか、信之助さんの想い出と夢の中で生きてきたって。それはいつの間にか、じいちゃんにとって信之助さんはこうあって欲しいっていう理想になっていたんじゃないかな?じいちゃんの中の信之助さんは昔のまま時が止まって、少しずつじいちゃんの形に変化していったけど、実際には信之助さんも同じように時を刻んで変化して行ったんだよ。」
「そうかもしれない」
 一郎さんが俯いた
「でも信之助さんは優しかった」
 そして微笑んだ、とても優しく。
 僕は思った。変わったのは信之助さんではなくて一郎さんではないか?一郎さんは自分でも気づかない程幸せだったんだ、きっと。


 それから数日後、僕はパン屋の先代から意外な話を聞いた。
 一郎さんに奥さん以外に愛人がいた、というのだしかもその人は信之助さんの家族がいた離れにあとから来た人らしいのだ。夜な夜な母屋から抜け出し逢瀬を繰り返した人がいるという。
 どんな人なのか聞くと本人に聞けという。


 そんなときだった。突然了から電話が入り、どうしても家に戻ってきて欲しいという。
 僕はほんの一時のことだと思っていた。