| 桃 
 「んっ」
 ぷはっ
 すると頭上から忍び笑いの声がした。
 「なんで笑うの?」
 不満タラタラで苦情を述べた。
 「いや、賢一郎はキスするとき、いつも息を止めるから、可愛いな…と、思ったんだ。」
 え?息、止めないの?
 
 
 「………止めない…かな?多分…」
 首を傾げながら思い出してくれたのはじいちゃん。
 「止めないよ。」
 その横で断言したのは了くん、あっちゃんの弟。最近はよく遊びに来る。
 お母さんが社長になって、了くんが専務。病気のお父さんは会長に退き、今は退院して仕事に復帰しながらリハビリしている。もうかなり良くなっているのだ。
 時々、僕も家の掃除とか雑用を手伝いにあっちゃんの実家へ行く。だからすっかり仲よくなった。
 「了くん、恋人いないのに?」
 「ばっ!ばかっ、キ、キスくらい経験してるよ!高校生じゃないんだからっ!」
 真っ赤な顔で文句を言う。
 「へぇ〜。僕は無かったな〜。温さんが初めて。」
 うん。
 「そ、そうなのか?」
 「いつも片思いだったからなぁ。」
 びっくりを絵に描いたような表情だ。
 「キスもセックスも、温さんが初めて。だって好きな人としたいからね。」
 了くんは目を白黒させている。
 「何の話かな?」
 そこへ店から戻ってきた温さんが加わる。
 「この間のキスのこと。」
 あからさまに嫌な顔をした。
 「了に、話したのか?」
 「いけなかった?弟さんだから一番温さんの気持ちが解るかなって思ったんだけど。」
 ふぅっ
 小さくため息。
 「賢一郎は解らないんだな。兄弟は友達感覚より敵に近い。いつ、大事な人の気持ちを奪って行くかと、冷や冷やしているんだけどな。」
 「ないない、僕はあっちゃん一筋!」
 「そうらしい」
 じいちゃんが言い、了くんが笑う。
 「こんにちは。」
 僕が花屋を始めてから、伸子さんが頻繁にやってくる。じいちゃんが心なしかうれしそうだ。
 近所の商店街のご隠居さんやフラワーアレンジメント教室で一緒だった人たちが集まってきていつも賑やかだ。
 きっと、信之介さんが連れてきてくれだんだろう。それだけでも二人の愛の深さが解る。
 
 
 「温さん―」
 「ん?」
 「今度の休み、伸子さんが子供さんを連れてきてくれるんだ。……桃の花を見に行きたい。久しぶりに二人っきりで。」
 口角を少し上げた。
 「ここんとこ、誰かしら家にいるからな。行こう、桃は山梨の塩山だろ?」
 こくり、頷く。
 「あっちゃん」
 目を伏せ、微笑む。
 「僕も、多分…」
 「たぶん?」
 「いや、絶対」
 「ひどい恋人」
 唇を尖らせ抗議する。
 「あのコート?」
 ふと、視線の端に映ったクリーニングから戻ってきたベージュのトレンチコート。
 「ああ。あれが、賢一郎を捕まえてくれた。」
 「虫採り網みたいだ。」
 僕は目を閉じ、息を止めて至福の時を待った。
 
 
 
 
 おしまい
 
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