秘密
 文生、ごめん…俺はお前をこんなにも傷つけていたんだ…
『嫌…やめて…』
 その声はお前の本当の言葉だったんだ。
 俺は気づいてやれなかった。自分の気持ちしか考えていなかった。
『愛している』
 今、そんな言葉を言ったって、文生は信じてくれるわけない…



「もう、文生の前には現れないから…ごめんな。これが最後だ。」
 病室の入り口から先へは一歩も入ろうとしない巽が立っていた。
「文生を苦しめていたなんて、全然知らなかった。文生も、気持ち良いんだって、信じて疑わなかった。」
 黙って俯いていた文生が、小さく答えた。
「…気持ちよくなんかないよ。僕だって男だ、あんな風にされたら口惜しいに決まってるだろう?
 ましてやその所為で今回みたいなことになってしまったんだ…許せるわけないだろう…」
 巽の耳には『許せるわけないだろう』の言葉だけが繰り返し響いていた。
「僕には好きな娘がいたんだ。だけど絶対に今度のことは学校中に広まっている…僕はもう二度と学校へは行けない、行きたくない。君の居る学校へは例え好きな娘と
天秤にかけても行きたくない。
 君のほうが勝っているんだよ、解る?僕の口惜しさ…」
「だったら…」
 ポロポロポロ…巽の頬を涙が伝った。
「どうしてもっと早くに嫌だって言わなかったんだよ。俺はてっきり文生もイッたから、気持ち良いんだって、俺とのセックスは気持ち良いんだって信じていた。」
「言うなっ」
 文生が激昂した。
「君と僕がした行為を口にしないでくれっ、反吐が出る。」
 巽の表情が凍りついた。
「…解った。さよならだ。本当にごめん…」
「さよなら」
 一歩進んだところで、巽は振り返った。
「文生…もう一度だけ、俺のこと、名前で呼んでくれるか?君じゃなくて…」
「巽、さよなら。」
 吐き捨てるように言われたことで、巽は決心した。
「ああ、さよなら。もう一つだけ、聞きたくないことを教えてやる。
 どんなに文生に嫌われても、恨まれても、一生許されなくても…文生とのことを俺はずっと忘れない。
 この先何があっても俺は忘れない…文生を愛しているから。」
 そのまま巽は廊下を走って消えていった。
「愛して…る?」
 文生は何度も何度も反芻した。
――だって…巽は僕の身体を使ってセックスしたかっただけじゃないのか?そう言っていたじゃないか――



 学校へ行ったら巽はいなかった。啓五もいなかった。文生の居場所もなかった。
 何度も何度も、夢に現れて、その度に枕を濡らした。
 転校をした。もう誰も文生のことを、文生が通ってきた道を知らない。
 文生はただ、勉強だけをした。友達の居ない学校で勉強だけして、有名私大に合格した。



 大学は灰色のまま終わった。
 何処にでもいる、誰にでも出来る就職の道を選んだ。



「巽?」
 それは10年振りの再会だった。
「文生・・・」
 暑い夏の昼下がり、繁華街の交差点で、よれよれの汗がぐっしょり染み込んだワイシャツ姿で文生は営業周りの途中だった。
 巽は仕立ての良いスーツを着こなし、センスのいいネクタイを締め、びっくりした瞳で文生を見た。
「元気だったか?」
 文生は10年の間、誰とも話をしていなかったように思う。
 転校した学校では友人が出来ず、入学した大学では友人を作らなかった。
 信号が点滅している。
「これ、僕の携帯が書いてある。電話して。」
 慌てて文生は名刺を手渡し、横断歩道を渡っていった。
「文生…いいのかよ…俺と会っても、いいのか?又お前を苦しめてしまう…俺は…」
 文生の後姿を見つめながら、しっかりと受け取った名刺を右手に握り締め、慌てて道を渡った。
 巽は文生の姿を見つけて、急いで車から降りたのだった。少しでも近くで、文生の顔を見たかった。多分文生には巽の顔なんか解らないだろうからとタカをくくって
いたのだ。
 でも覚えていた。文生は覚えていてくれた。



 家に帰ると時計とにらめっこをした、文生が帰る時間を見計らって電話を掛けた。
「そっかぁ、巽は弁護士やっているんだ。カッコいいな。昔っから頭良かったし、カッコ良かったもんな。」
――どうして文生がそんな風に俺に言うんだ――
「でも大変なんだぜ。俺弁護士会に入っているけど、一人で活動しているから、事務とかがてんてこ舞いでさ。」
――絶対に変だ――
「学生時代にガールフレンドとかいなかったの?巽ならもてただろうに。」
――馬鹿・・・いるわけないだろう?俺はずっとお前だけ見ていた――
「いないよ」
――文生に彼女がいないことも知っている――
「僕はちゃんと彼女が出来たんだ・・・」
「嘘」
 巽は思わず声に出してしまった。今までずっと文生の前に姿を現さない様に見つめていたのに。ストーカーと思われたって構わない、巽はずっと、密かに文生を見つ
め続けてきたのだ。
「失礼だなぁ、まぁあの頃とは違うんだよ、何もかも。」
――そうだよな、文生は俺とのこと思い出にもしたくないんだよな――
「ところで、何で学校来なくなったんだ?」
「え?」
 文生はわざとしらばっくれるように、巽に問いかけた。
「退院して学校へ行ったら巽も啓吾もいなかったから。お父さんの転勤か何かか?
・・・僕は自分から転校したいって言ったけどね。あんな思い出はいらないから・・・」
 巽はぎゅっと拳を握り締めた。
「文生に言ったじゃないか、もう二度と君の前には姿を見せないって。」
「嘘言うなよ」
 文生が断言した。
「僕、知っている。いつだって巽は背後から僕を抱き寄せる機会を狙っていた。だから僕は絶対に君の罠に落ちまいとして今日まで頑張ってきた。
 あのままじゃ、ずっと主導権は巽が握ったままじゃないか。そんなの悔しくて、自分が許せなかった。
 啓吾に騙されて姦輪されて・・・気づいたんだ。巽は僕をこんな風に扱わなかった。いつだって優しく、僕が気持ちよくなるようにしてくれた。決して僕にフェラはさせなかったし
ね。・・・愛してるって言われてそういう事かって解ったんだ。」
 巽の顔から血の気が引いた。
 気づかれていないと信じて今日までストーカーのように文生をつけていた、付回していた。なのにそんなことは文生に全部見抜かれていたんだ。
「巽に堂々と胸を張って会える日まで、僕からアプローチはしないって決めていた。
 僕は今、一人前に仕事が出来るようになったんだ。心臓は相変わらず悪いけど、昔ほどじゃなくなったから、少しくらいの無理は出来る。営業の成績は一年間トップだ。全部
自分の足で稼いだ成果だ。コネは一個もない。だって僕にはまともに相手にしてくれる友達は一人もいない。」
 フフフッと電話の向こうで意味深な笑い声が聞こえた。。
「でも巽とは付き合えないよ。だって僕には恋人がいる。信じていないようだけど、ちゃんといるよ。抱かれる悦びより抱く快感を知ってしまった。だからそれを超えられる位の何
かを僕にくれないか?何かって、物じゃない、感情だ。僕の感情を動かしてくれたら、僕は永遠に巽のものになってもいい。」
――永遠に巽のもの――
 その言葉に巽は理性を失った・・・



 その晩は一睡もしないで考えた。一体どうしたら文生の心を動かすことが出来るのか。その前に文生の恋人はどんな人なのかを知りたかったが・・・。



 翌夜、再び巽は電話を掛けた。
「文生って確か理系だったよな?どうして営業なんだ?」
 突然、思ってもいなかった質問に、文生は戸惑った様子だ。
「自分の力を一番試せる仕事だから。」
 巽は次の質問をする。
「じゃあ、別にどうしても営業じゃなきゃいけないって訳じゃないんだ。」
「あぁ、別に営業がやりたかったわけじゃない。営業なんて自分の時間が全然自由にならないからつまらない仕事だ。」
「自分の能力次第で、時間も仕事も自由になる・・・そんな環境で働けたら、転職するか?恋人にもいつだって会える。」
「そうだな、理想だと思うけど・・・」
 ちょっと警戒し始めた口調だ。
「もしかして、巽の事務所か?」
「あぁ、昨日も言っただろう?文生がちゃんと仕事をしてくれるなら、時間は拘束しない。好きなときに好きなだけ仕事をしてくれればいい。どうだ?」
「どうだって・・・庶務全般だろう?経験がない。」
「経理だけだな。だって働いているのは文生と俺だけだ。依頼は俺が受ける、今までどおりだ。ただ、経理の仕事が全て滞っているから、誰か信用できる人物に任せたかったん
だ。文生なら適任だ。」
 電話の向こうで、戸惑っているのが手に取るようにわかる。
「駄目だ。また巽の思う壺にはまってしまう。」
「何もしない。文生が嫌だといえば、俺は絶対に手出ししない、これは誓う。もう二度と、文生に恨まれるのは嫌だ。」
 そう、巽はもうあの時の子供ではない、欲望だけで人の心を傷つけない、欲望だけで行動はしない・・・忍耐という言葉を知ったからだ。
「少し・・・考えさせて欲しい」
「良い返事を待っている」
 文生は電話を切った。



「罠に決まっている…」
 自分が巽を罠にはめるつもりでいた。あの時、もっと早くに巽の気持ちを告げてくれていたら、文生は巽の申し出を断っていた。絶対にセックスなんてしなかった・・・断言は出来
ないけど自分に好意を抱いている人間と安易に性交渉なんて出来ない・・・とは思うものの、文生は巽が体育の授業のときに誘われたって、それがどういうことかもわかっていなか
ったのだからそれが無理だったことも気づいた。
「巽の傍に行ったら流されてしまう…」
 解っているのに、文生の心は巽へ、巽へと向かっていた。



「本当にいいのか?」
「…今日、退職願を出した。来月の末迄だけどな。」
「ありがとう…」
 電話の向こうで巽が微笑んだように思えた。



「巽、交際費の件だけどさ…」
 文生は社内では仕事の話しかしない、絶対に飲みに誘わない、いつも誘うには巽のほうだ。
「足りないか?」
「あぁ、ちょっと遣い過ぎだ」
「解った、控えるよ。」
「そう言ってお前は自腹切るんだろう?…店のグレードを落とせ。そうすれば何とか今期は切り抜けられる。」
「無理だ。」
 ――無理だよ…傍に文生がいるのに、俺は指一本出せずにイラついているだけなんだ…怖いんだよ、又怖がられて拒まれたら…――
「巽?どうした?」
「いや…出かけてくる」
 巽は逃げるように事務所を後にした。
 文生が事務所を手伝ってくれるようになって、仕事がかなりはかどっている。今までの倍以上、処理は早いし依頼を受けるのも上手い。掃除もしてくれるので書類がどこにある
かもすぐにわかる。
 巽にとっては至福の時のはずだった。しかし現実は辛い日々の連続。電卓を叩く指先、ボールペンを握る掌、電話で話している口元…何もかもがエロティックに映る瞳…
 巽はデスクに座っていると、ふいに立ち上がって文生を抱きしめ、そのままずるずると行為に溺れたくなる衝動に駆られる、しかし次の瞬間10年前の文生が目の前で拒絶する
のだ。
 ――今の自分なら、絶対に文生を幸せに出来る自信はあるのに――



「巽…」
 文生がここへ来て既に半年、巽は紳士だった。職場でもアフター5でも決して口説いてくるようなことも、強引に行為に持ち込もうとすることもなかった。
『文生君の心臓、もう大丈夫だよ。随分鍛えられたね。』
 先日、掛かりつけの心臓病の医師からそう言われた。もう通院しなくて良いと言うのだ。
 ――だけど絶対におかしい、だって僕の心臓、昔より動悸が早くなっている…――
 巽の後姿を見送りながら、何故か自分がイラついていることを悟った。



 そんな風に、一年が過ぎていった。



「文生のお陰で前期は前年比約200%だった、だから平等に利益を分配…」
 夜、巽と文生は居酒屋にいた。
「僕はいらない、だから事務所のために使ってくれ。それと…」
 文生はずっとしまっていた物を胸ポケットから出した。
「何だよ、これ…」
 『辞表』と表書きされた封筒。
「辞めたいんだ…」
「なんで?」
「仕事は、楽しい。こんなに楽しい仕事があるなんて知らなかったよ。だけどさ…満たされないんだ。何かが満たされないんだよ。」
「何かって…休みか?そうだよな、俺文生に休日は何時だって好きなときに取れば良いなんていったのに、全然休ませてやらなかった。彼女から何か言われたのか?」
 文生は俯いてただ首を振るばかりだ。
「解らないんだ…自分がどうしたいのか答えが出せないんだ。だから辞めて、しばらく考えたい。」
「駄目だ、今文生がいなくなったら俺はどうすればいい?仕事なんて手に付かないし法廷になんて行けない…何もしなくてもいい…そうだ、一ヶ月、一ヶ月休んでいいから、だから
辞めるなんて言わないでくれ。」
 しかし文生は決して首を縦に振らなかった。
「何が不満なんだよ…何が満たされないって言うんだよ…」
「…巽の罠に嵌ってしまったから…」
「わ…な?」
 巽は身に覚えのないことを言われ戸惑った。
「何だよ、罠って?…って、ここ、出よう。事務所に戻るぞ。」
 文生の手首をしっかりと握り、伝票を掴んで出口へ向かう。無言で会計を済ませるとぐんぐんと文生を引っ張って空調が切れた事務所に戻った。
 室内はかなり蒸していた、ソファに文生を座らせると覆いかぶさるようにして質問した。
「罠…って何だ?俺が何時、文生を騙した?」
「罠に…決まっている…だって一年も放置されたら、僕はどうしたらいいんだ?この先巽とどう接したらいいんだ?」
 巽には文生の言っていることが全く理解できなかった。
「約束…だから…」
 つい2時間前の文生は、奥のデスクで威風堂々として仕事をこなしていた。それがたった2時間でどうしてこんなに変ってしまったのだろう?
「僕は…巽が好きなんだ」
 次の瞬間、巽は文生を抱きしめた。
「抱かれたくて…巽に抱かれたくて毎日悶々としていた。だけど怖いんだ…抱かれてしまったら明日からどんな顔して会えばいい?だから…ビジネスパートナーではなくて恋人に
…して欲しいと…」
「もういい、何も言わなくていい…俺は忘れていたよ、確かに一年前、文生に言われたよな。文生の感情を動かすことが出来たら恋人になってくれるって、永遠に俺のものになるっ
て…だけど俺は初めから試合放棄していたのだからこれは無効だ。」
 巽の唇が文生に重なる。
「幸せにするから…俺のものになってくれ、絶対に泣かせない、そのために俺は弁護士になった。」
「巽…」
「文生、愛してる。この気持ちは変らない。」



「あ…」
 文生はゆっくりと身体を開いた。
「ん…んっ…あ、巽だ…巽…あ…」
 身体全部で思い出すかのように文生は受け入れた。巽の形を覚えていたといわんばかりにそこはぴったりと巽に絡みついた。
「待って…そんなに締め付けたら…イクッ…」
 巽は辛うじて堪えた。11年ぶりに腕に抱いた恋人…文生はあの高校生の時よりも更に色っぽく艶やかに官能的だった。
「駄目、僕もイキたい。一杯して。」
 文生が積極的に動く。
「う…」
 巽は小さく呻いて果てた。



 巽は深い眠りに落ちた…。



「文生…?」
 目覚めると、文生はいなかった。



「文生っ、何処にいるんだ?早く帰って来い」
『ごめん、帰らないよ。これは僕の復讐だから…。』
「解っていた、文生がまだ俺を恨んでいること、だから抱いたんだ。文生がそれで俺への復讐を完結するのなら、いくらでも罪を償う。」
『駄目だよ…復讐はここからだよ。巽は僕を抱いたじゃないか。』
 そうだ、全部解っていた。だから抱いたんだ。
『でも必ず会いに行くから、それまで大事にしてくれ。』
「文生っ」
 俺の傍らには『文生の恋人が産んだ』赤ん坊がいる…この子を抱えて、仕事を続けろと言うんだね。君がそれで俺を許してくれるのなら、育てていこう、たった一人で。誰
にも頼らず、俺が育ててみせよう。



「文生…その…恋人って…」
「知りたい?」
「あの…うん…」
「巽がいくら僕を尾行しても解らなかった相手といったら、一人しかいないだろう?今妊娠しちゃってさ、誰を父親にしたらいいのか、真剣に悩んでいる。うちの父親はとっくの
昔に他界しているからね。」