= 未勝利戦 =
 ドクン、ドクン、ドクン…
 自分の心臓の音が耳まで届く。
 先輩の部屋を出てから自分の部屋まで、階段を降りて真っすぐ数歩歩いただけなのに、なぜか異常
に緊張した。
 横山先輩は好きだ。明るくて優しくて仕事も丁寧だから分かりやすい。だけど…ボクはゲイが嫌いな
んだ。
 何故かボクのまわりにはホモセクシャルが多い。
 親友は同性のボクに迫ってくるし、弟は学校の裏手で男とキスしていた。父は男と駆け落ちしたし、叔
父はゲイバーの店長。
 ボクも同じ趣向だと思う輩が多くて困る。だから大好きな母を置いて故郷を後にした。
 なのに入社早々、自分の教育担当の先輩(シニア担当)がゲイなんてついてない。
 しかも同僚と零愛中なんてしれっとした顔で言う。
 相手の男が又、ホモ受けしそうな男だ・・・なんて思っていたら、子供のときに憧れていた武先輩だった
のにダブルショック。
 暫く立ち直れそうにないな。
 最初に会社から指定された部屋は藤田と同部屋だった。一ヶ月間は規律正しく生活するように言われ
、これも社員教育の一貫だと知ったのは同期で総務に配属になった女子社員の情報だった。
 なんでも総務部長が内線電話で人事部長と話していたのを偶然聞いたらしい。で、一か月後の今週
土曜日、晴れて一人暮らしとなったのだが、横山先輩と同じアパートだと知ったのは偶然だった。
 ま、あちらが休日、楽しそうに買い物をしていたのを目撃して、後を着けたら二階の住人だったのだ。
 今までは彼がカミングアウトしてきた内容だけで当てずっぽうにイジメていただけなのだが、明かりの
具合、影の動きでなんとなく、ボクが彼に言ったことは間違っていなかったと 確信した。
 ボクが幼い日々、大切に心の中で温めていた思い出に、彼が土足で上がり込み、あの人を無理矢理
連れだし犯している、それくらい傷つけられたんだ…って、これは武先輩しか傷ついてないか。しかもあ
の人は喜んでる…らしい。
 ま、これは一週間の成果…なんだけど。
 その時、ボクは携帯電話を先輩の部屋に忘れてきたことに気付いた。
 明日でもいいかと思ったが、取りに行くことにした。相変わらずの覗き趣味だ。覗き趣味って言った
ってあの二人に限ってなんだけどなぁ。
 他の部屋の前を通りすぎ、階段を上がる。無意識のうちに夜間だから近所迷惑だろうと、インターホ
ンを鳴らさずにまずノブに手を掛け回してみた。手応えあり。そのまま回し切る。
「すみません、携帯…」
「もう、僕は付き合い切れないからな!」
「勝手にしろ!」
 …何故か修羅場になっていた。
「あれ?かつみ…丁度良いや、今晩、泊めて。」
 なに?
 ボクは何も言えないまま、勝手に武先輩が決めてしまった。
「…そうだな、四位は尚敬に好意的だからな。」
「サイテーな奴っ」
 武先輩は捨てゼリフで出て行った。
「ごめん、迷惑かける」
 横山先輩…右手に持ってるの、ボクの携帯…
「それ、鳴りました?」
こくり、頷かれた。
「私の携帯です。電池ケースの所にドラえもんのシールが貼ってあります。」
 不本意だが妹に貼られた。剥がすと汚れるからそのままにしてある。
 先輩は困惑した表情で携帯を差し出した。
 仕方ない、ボクの携帯が原因らしい。
「なんでこんな時間に田中から電話が来るんだ?」
 なに?
「田中先輩…ですか?」
 心当たりの前に番号を教えた記憶すらない。
「あいつのと、型も色も着信音まで一緒だから間違えたらしい。」
 俯きながら説明する。
「後は御本人から直接伺います。」
 それだけ伝えてドアを閉めた。
 ボクの部屋の前で待ちくたびれた顔の武先輩が所在無げに立っていた。
「巻き込むつもりは無かったんだけど、あまりにもタイミングが良かったし、売り言葉に買い言葉で…」
 言い訳をするこの年上の人を部屋に入れた。
「まだ片付いていないから散らかってますけど。」
 先週の土曜に越してきて丁度一週間、空になったダンボールが紐で結わえて積んである。
「平気、うちも変わらない。」
 実家は変わらずあの場所にあること、藤田の普段の様子など今必要ない話をぽつぽつ話す。
「ボクが今聞きたいのはその話じゃないです。」
「…そうだよね…」
 この人も俯いて話をする。
 ボクの携帯に電話を掛けてきた田中先輩は合コンの誘いを先程の飲み会で言い忘れ、人数合わせ
を説明しながらも電話の相手を確認しなかったらしい。
「あいつ、なんでボクに電話してきたんだろうって思ったけど、わけがあるんだろうとOKしたんだ。それ
が気に入らなかったんだよね、難癖つけてきた。」
 そりゃあ、自分の好きな人がデートの誘いを目の前でOKしていたらむかつくよなぁ。
「絶対に行かせないって携帯取り上げられたとき、僕のポケットで携帯ストラップが見えたらしくて。そこ
からはどうして気付かないんだなんだと文句言ってきてあの場面だよ。」
 なんだ、本当に痴話喧嘩なんだ。あほらしい。
「しばらくしたら戻るから。」
 もう寂しくなったのだろうか?
「私が、代わりになりましょうか?」
「ばっ…冗談じゃない、僕は身体の関係なんかどうだって…」
 自分の発言がかなりハレンチだと気付いたらしい、真っ赤な顔で俯いた。
「ごめん、そういう意味じゃないよね?」
 どちらに取られても構わないように言ったつもりなのだが。
「僕は女の子の方がいいんだよ、ただ、横山だけ別なんだ」
 真剣な顔でボクを見ながら告白された。
「でも横山を選んだ時点で、僕の恋愛感覚は違っているのかもしれない。」
 一生懸命微笑もうとしているのに、瞳が泣き出しそうだ。
 この優しい男(ひと)は真剣に悩んでいる。
 それなのにボクはからかい半分であしらってしまった。これはいけない…と気付いた時だった。
 聞き馴染んだ着信音が流れてきた。だが、武先輩の携帯電話だ。本当に同じ機種、同じ着信音
だ。
「…なんだよ…嫌だ…」
 否定の言葉だが瞳は先程と打って変わって幸せそうだ。
「だから!」
 今度は困惑の色。
「でもね、」
 何か条件を出したのか?
「嘘!」
 こんなにコロコロと表情が変わるなんて面白い!
「……」
 …何があったんだろう?
「ごめん」
 それだけ言うと、武先輩は振り返ることなく部屋を後にした。
 寂しくて我慢できなかったのは横山先輩の方らしい。
 なんか、胃がむかむかする。確かに今夜は飲みすぎたからなぁ、胃薬飲んで寝よう。





「ねぇ、素直になりなよ…



「どうしていつも、そんなに拗ねているの?…」


「由弘だって困っているのに…」


 おかしい。何故かずっと、武先輩の声がする…
 ベッドから身を起こし電気を点けた。
 室内にいるのはボクだけ。
 耳をすましてみると、なにやらボソボソと囁き声が聞こえた。
「だから駄目だって、聞かれちゃうよぉ」
「聞かせてやればいいじゃないか」
「やだよ」
「でもそろそろ気付けよな」
 それで分かった。
 充電機に刺さっている携帯を手に取り、耳に当てると二人の声。やっぱり。
「もしもし?」
「やっと気付いた」
「寝ていたんですけど。」
「え?もう?」
「私は独りですからね、夜はすることがありません。」
「またまた〜」
 ボクは大きくため息をついた。
「さっき、私の携帯、いじりましたね?」
「ああ、自動着信にしておいた。」
「何故?」
「お前が何しているかこっそり聞こうと思った。」
「それは法的に引っかかると思いますけど。」
「今からこっち、来ないか?」
 ボクは何の抵抗もなく、横山先輩の誘いに乗った。


 結局、ボクが携帯を忘れたことに気付いた横山先輩が悪戯心で始めたことだった、喧嘩も勿論
嘘。
「いつもの仕返しだよ」
 そうは言うが目が笑っている。
「四位君、君は絶対幸せになれる、だから臆病にならないで積極的に声をかけたらいい。」
「好きです。」
 そんな風に言われれば好きと言うしかない。
「だから〜」
 武先輩が叫んでいる。
 いいんだ、ボクのこの思いは死ぬまで誰にも言わないや。
 だから本人も知らないまま…。