= 柴田さんの場合 =
 奥さんが又ヒステリーを起こしている。
 結婚当初はこんなにイライラしている女じゃなかった。
 あの頃、出会いは劇的に思えたんだ…。
 営業の途中、ずっと観たかった映画が最終日だった。思い悩んだ挙げ句、仕事を放棄して映
画を取った。
 思ったとおり、映画は良かった。良すぎて感動していたが、劇場内に照明が点き、ふと周囲を
見回すと、席にいたのは号泣している女性と、自分一人だけだった。
 その女性は泣きながら立ち上がり、頬に涙の跡を残したままだった。
 私の存在に気づくとにっこり微笑んで素敵なお話ですよね―と話かけてきた。それがきっかけ
でまぁお茶でもとなり、互いに仕事中だということに気づき、では今夜―となり居酒屋で一杯がそ
のまま雪崩れて男女の関係になってしまった…と、今思えばありふれた出会いだった。
 でも当時は若かったからドラマみたいだなぁ・・・なんて女性に言われたらそうなんだと納得して
しまったんだ。
 当時、奥さんの他にも付き合っていた女性が二人、いた。全員と関係を持っていたのだがそれを
猛烈に怒ったのは奥さんだった。それで私も一人にしないといけないのかと思って、奥さん一人に
絞ることにした…ま、簡単に言えば妊娠させてしまったんだけどね。
 慌てて入籍して、結婚式場のキャンセルがあったので(今思うとどうしてキャンセルがあったのだ
ろう…婚約不履行?ま、いいか。)急いで知人に連絡して、お腹が目立つ前に式を挙げた。
 それから毎年、子供が一人ずつ増えていき、家庭は明るかったけど家計は暗くなっていった。
 一番上の長男が小学校二年、次男が小学校一年、三男が幼稚園の年少組、長女が年長組。みん
ながそれぞれ昼間出かけるようになったので、奥さんは自分の時間が持てるようになったと喜んでい
たけど、何故かイライラしていることが多くなった。
 私は、浮気はしていない。女性関係で奥さんを泣かせることはしたくないからだ。
 若いときは複数の女の子と交際が出来たけど、今は無理だ。自由になる金もないし、時間もない。た
まに同僚と飲みに行くだけ・・・。
 今夜の奥さんのイライラは、夕べ私が外泊してしまったからだ。幸いにもヨコが奥さんに電話をして
くれていたので、(後ろでわめいている私の声をしっかり入れておいてくれたので有らぬ疑いは掛けら
れなくて良かった)大爆発は無かったけど、やっぱりイライラしている。
 子供たちが寝静まってから、奥さんを抱き寄せる。
 しかし、何故かその手を叩かれただけで本気にしてもらえずに、元気になった息子を慰めることも出
来ず、一人で寂しく奥さんに背を向けて寝るしかなかった。
「…もう、私のことなんか『お母さん』としか思っていないくせに。」
 うとうとしかけた耳に、ため息と共に聞こえた声。
「…いつ、僕が君の事をおかあさんって呼んだよ?僕はいつだって君の事を奥さんか光希って呼んでい
るけど。」
「呼び方じゃないわよ。」
 何が、気に入らないんだ。
「私以外に気になる人がいるんでしょう?」
「いないよ」
 なんでそうなるんだ。
「浮気していないのにしているって言われているんだ…なんか馬鹿みたいだ。今だって光希のことが
真面目に欲しかったのに…。」
 そう、私は結婚してから奥さんとしかセックスしていない。でもそれで十分満足しているんだ。
「嘘よ…だって私…おばさんになってるもの…会社の女の子みたいに若くないもの。」
「安心しろ、会社に若い女の子はいない…パートのおばちゃんばっかり、光希より年上ばっかりだ…」
 まじでまじで…。
 半年前までは総務分室に契約の子がいたけど、後藤が皆の前で派手にフッたので翌日から来なくな
った。
「本当?」
 やっと、機嫌を直してくれたらしい。
「ああ。」
 唇を合わせ、体制を整える。
「五人は、経済的に無理だけどな。」
 光希が笑った。


「彼女とうまくいってるか?」
 なんとなく疲れた表情の田中の背中を見つけた。
「よく、わからないです。女性は何を考えているんですかね?」
「決まってんだろ…」
―良い男をつかまえること、その男がお金を持っていること、セックスが上手いこと―耳元に囁く。
「上手く、なかったら…」
 あの娘と、寝たのか。
「そうだな、さよなら―かな?」
 なぜか意地悪したくなった。
「じゃあ、次はないかな」
 喧嘩か?
 しかし。なぜかその先の言葉が出なかった。どうしてだろう?
 一回、深呼吸をしてゆっくりと言葉を吐き出す。
「あの娘と…寝たの?」
 声が裏返っていた。
「なっ何言うんですか!」
 田中が慌てて椅子から立ち上がった。
「していません」
 真っ赤な顔をして大声で否定するのでヨコが飛んできた。
「なになに、何があったんですか?」
「何でも無いよ」
 急いで遠くに追いやる。
 ヨコが遠くに行ったのを確認してから、更に突っ込んでみた。
「本当は何があったんだ?」
「違うんです…」
「だから…」
「彼女じゃない。彼女は僕の運命の人じゃない。だから抱けないんです。」
 …
 ちょっと、待てよ?
「お前さぁ、童貞?」
 ずっと、彼女がいないとのたまわっていたけど、一度も付き合ったことがないとか?
 田中は俯いたまま顔を上げない。
「んで、ホモ?」
「違います。」
 そこは否定するか。
「兎に角、セッ…」
 まただ。又声が出なくなる。
「…クス、してみればいい。」
 掠れた声を絞り出した。
「先輩」
 田中の瞳が私を見ている。
 次の瞬間、自分を見失った。
「やり方、教えてやろうか?」
 だーっ、何を言ったんだ、自分。
「教わるなら、奥さんがいいな」
 がーん、と言う音が耳の奥で響いた。頭がズキズキする。
「馬鹿野郎」
 ハハハ…と、冗談めかして笑う。
「したい気持ちは充分にあるのに、身体が言うことを効かないんです」
 光希に言われた言葉が、今やっとわかった。
 こいつが、気になるんだ。気になって気になって、仕方ないんだ。
 けど…それは別に…なんなんだ?
 あー全然わかんない。